幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

”何か”になる必要はあるのか?

そろそろ子供たちの夏休みも終わりに近づき、僕としてはやっと一息つけそうな雰囲気が出てきたところ・・・とは言っても、まだまだなのですが。

で、この時期やっぱり仕事の上で必要になるのが、進路の練り直し。

特に、高校受験の場合、神奈川県においては夏休み中に各学校の説明会などがあったりして、志望校が大よそ固まって来るのもこの時期ではないかと思います。

で、神奈川県の公立高校の場合、入試制度がちょっと複雑で、あらゆるものを点数化します。内申点、面接、テストの点数。テストの点数はあえて点数化する必要ないし、内申点も点って言うくらいですから点数化されているものです。ただ、面接ね。これも点数化されちゃうんです。そのため、学校ごとの観点とか、共通観点とかがあって対応し易いと言えばし易いんですけど、その指導をするときに僕は悩んでしまうのです。

簡単にその観点を言うと、つまり具体性なんです。

「中学校では○○をしたいと思い、そのために○○を頑張りました。高校では○○をしたいので、○○を頑張りたいと思います。」みたいなもの。

イメージとしては、イチローの作文とか、本田圭祐の作文とかみたいな、より具体的な道筋が言えるようになっていると良い点がもらえます。

でもね、思うの。自分が中高生だったころ。僕は何になりたいと思っていたのか?

僕は当時やってた「ER」にあこがれて、医者になりたいと思ったこともありました。でも、数学と仲たがいをしていた僕にはその道は険しく、また血を見ることが苦手であることもこのころわかり、あっさりと諦めたのですが、子供のころの憧れってそんなもんじゃないですかね?

そして、今でも実は自分が何をしたいのかわかっていないって言うね。

もしかしたら、きっと世の中の多くの大人は、自分のやりたいことをしていないのかもしれない。と言うか、むしろ自分のやりたいことがわからないのだと思う。そして、恐らくはその存在さえ疑わしいのかな?大人になってしまうと、「やりたい」ことより「やらなきゃいけない」ことの方が多くなる。それは生活するためだったりすのだけど、でもそうしないときっと多くの大人が何もしなくなっちゃうんじゃないだろうか?だとすれば、子供に「具体的にやりたいことを考えろ」なんて言うのは酷な話だと思うのです。

僕らは、今することを「未来」によって、あるいは「過去」によって決められてしまう。でも、僕らは「今」しか生きられない。

何かになる必要ってあるのかなぁ?

何かになろうって思う必要あるのかな?

何かになったって認めてもらう必要がある?

僕にはわからないや。