自分のことをおっさんだという自覚はある。
ただ、悲しいかな自覚してもどう振る舞ったらいいかはわかっていない。
まぁそれは特に僕にとっては問題にならないのだけど、僕のことを大事に思ってくれる人にとっては歯がゆいのだろう。
お盆になると親戚関連の集まりってのがあって、我が家も多分に漏れず集まりに参加するのだけれども、親戚の”大人”達は言うのだ、もう40に手が掛かろうという僕に対して子供に諭すように「早く結婚しなさい」ってね。
結婚したくないわけじゃないのだけれども、結婚とかしたいわけでもない。
今は恋愛とかも積極的にしたいなんて思わない。
僕の中にあるひとつの仮定としてね、恋愛なんてのは所詮は性欲を美しく言い換えただけのものなんだと思うのだ。もちろん、そんなことはないって思いたいのだけど、でも初恋の時期と第二次性徴とがかぶっていたり、いま現実に僕が恋愛に対して消極的になってきているのと、性欲の減退にリンクしているようでね。
年とともに恋愛の形も変わってくるってのはわかるのだけど、なんだろ、年取ってくるとより承認欲求が複雑怪奇かつ強くなるような気がする。
もちろん見た目的に美しかったりするのも大事なんだろうし、世間的にわかりやすいステータスも大事なんだろう。でも、そんなことよりも、もっと深いところで自分ってものを理解してもらえて、理解できる相手を求めるっていうかね。「好みのタイプ」なんてのがなくなってきた、と言うより、好みのタイプが複雑になりすぎて言葉で表すのが面倒になってきた。
しかも、妥協したくないってね。
若いころに比べて、妥協できるポイントが少なくなってるんだと思う。
若いころのどうしょうもない性欲って、ある意味で妥協する強いインセンティブになっていたのだろうけど、それが弱くなると妥協するポイントが少なくなるのかな?
だからある意味で純愛なのかもね、この年になって言って良い言葉ではないのだろうけどね。
とはいえ、まだまだ僕の性欲がなくなったわけではなくて、時々、ものすごく時々だけどムラムラすることはある。ただ、それを解消する手段もたくさんあって、ありがたいのかわからないけれど、変に鬱屈した欲求として留まることはない。適度に満たされて、一時凌ぎの満足を得ることができる。
でも、だからってそれで満足し切れることもないんだ。
承認欲求を満たしてくれて、時に性的欲求を掻き立て、満たしてくれるようなそんな便利な存在。って言うと酷く即物的だけど、承認欲求って部分も性的欲求って部分も単純な言葉通りの意味だけではなくて、例えば、承認欲求って仕事で何かトラブルあって帰ってきたときに、何も言わず抱きしめてくれるようなそんな関係だったり、性的欲求だってオーガズムより、触れ合いその時間を共に楽しめるような関係だったりと、だいぶ欲張りな欲求をいっぱいに詰め込んだものだ。
僕はきっと欲張りなんだろう。
甘やかされて育ったから。
あれもこれもって欲しがってしまう。
大人になる過程で、人は学んでゆく。
何もかもが思い通りにはならない。
大半が、大半の大人たちが経験し、妥協し、その教訓を子供たちに伝える。
可能性しかない子供たちには伝わらないんだよ。
子供たちもやがては現実を学び妥協を覚える・・・はずなんだけどね。
まぁそんな青臭いおっさんが、思うのですよ。
やっぱ世の中は金だ、とは言うものの、お金だけではない何かがまだあるのだと。
国民的アイドルが解散し、ニュースになる陰に、何十年ぶりかに復活した学生運動も解散する。久々にジャニーズタレントの出ない日本映画がテレビで放送されて、迎える70回目の終戦記念日。
世界の人口の25%が被害を受けたという戦争から70年が経過し、世界は大人になったように見える。でも、たぶん世界も僕と同じで、ときどき誰かと比べて悲しくなったり、むなしくなったり、そして嫉妬したり、70年前のギラギラした野望とか、強い衝動とか、そんなものも薄くなってきてはいるけど、それでもまだ時々思い出したように欲張る意識が出て来る。
世界が豊かになって、満たされて行って、絶対的な貧しさは減った。
でも、その分だけ相対的な貧しさが目立つようになったんだ。
明日を生きるために戦う戦争は無くなって、自分らしく生きるために他人の生き方を否定するような戦争が増えている。
いつだって戦争は、行き過ぎた経済活動の最終局面で現れる。
だからコマーシャルで、必ずと言っていいほどにアイドルが必要だ。
アイドルが乱立し、同じアイドルのファン同士で諍い、争う。
怖いから明言は避けるけれども、世界の宗教に纏わる争いも似たようなもんだ。ポピュリズムってのがそもそも、そういうものなんだろうけどね。
中学校の公民で教えてもらった資本主義って言葉。それと混同してしまっていた民主主義って言葉。北朝鮮の国名が朝鮮民主主義人民共和国だって聞いて混乱した。このあたりの背景にある主義や主張ってのも結局のところ、同じく人の幸せを目指した解釈の違いだけだったりするんじゃないのかな?
資本主義国家である日本社会が多分に全体主義的で、共産主義的な素養を持っていたのも過去の話になって、法治国家たる日本で、法の整備が不完全でありながらも社会の不文律によってどうにか回っていた時代も終わり、資本の多寡によって不平等に扱われる、本当の意味での資本主義が馴染み始めてきている。
それはまるで、青臭さを消しきれないで加齢臭までまとってしまっている僕のようで、本当に嫌だ。
フラグレンスさえ、若々しい匂いのものを避けて、落ち着いてそれでいてさわやか物を選んでしまう。ブルージーンズなんてもうつけられない。
戦争の放棄なんて青臭い理想論。
戦力の非保持は突っ込みを待っているボケのようなものだ。
それを微笑ましく、笑ってみていられた時期も過ぎ、金の力に見合った血を出す責任を世界から求められている。というかアメリカからか。
一方で臥薪嘗胆を地で行く隣人たちに囲まれて、日本の国の大臣が日本の宗教的な施設に詣でるだけで国際問題になる環境。
右だ左だと聞きなれない言葉が躍り、どちらに進んでも行きつく先は銃と弾丸。
あれ?こんなこと昔もあったぞ?
尊王攘夷を唱えて始まった活動が、気づいてみれば開国してたみたいなことが。
右回りでも左回りでも行き着く先が同じなら、いっそ真ん中行けばいいのにね。
武器がなければ戦わないのか?
いやいや、ご先祖様たちは竹やりで飛行機落とそうとしたじゃない?
武器を持っても戦わない。
それじゃないの?
目指すべきはさ。
この世の中に武器と言うものが生まれてから、それによって人が殺められなかった日はあるのだろうか?武器を持つ相手に、素手で向かう愚行は、相手の武器の行使を誘っている。冷戦って決して望ましい状況ではないけど、ある意味で良い実験だったと思う。武器を持って結局「あれ?武器って無駄じゃね?」って気づき始めることができたんだから。
青臭いのかもしれないが、これからの30年で世界はその日を目指すべきだと思うのだ。武器が全面的に無意味になる世界を目指すべきじゃないのだろうか?
ただ、悲しいかな、アインシュタインの予想通り、今のままでは第4次世界大戦がこん棒で争われるような実現の方法の方が近いような気がする。
そうならないように、僕は頑張ろう。
あ、えっちな動画見てからね。