フランスのテロの報を聞いて僕はぞっとした。
世界はまた悲しみを背負ってしまった。
僕は憂うのだ。
その悲しみが憎しみに変わりはしないかと。
そして、その憎しみは連鎖し、やがて世界を覆いつくしてしまいはしないかと。
有史以来、人はその歴史の中で多くの悲しみを経験している。
いつか、そのうち地球は、人類は、その悲しみによって押しつぶされてしまうのではないだろうか?
タイトルの英語文法的にあってるかな?自信がないw
今回の事件も結局、またISが絡んでいるのかな?
僕はイスラム教について詳しいわけではないけど、ISを「イスラミック」と呼ぶこと自体間違っているような気がする。僕の知る限りイスラム教は平和な宗教だ。彼らのやっていることはイスラム教とは関係のない単なる暴力による支配でしかない。
確かに、その聖典にジハードなんて概念があるけど、それはイスラム教黎明期の文化や社会的な背景から必要になったものだろうし、暴力ありきの活動ではないと認識している。
暴力は手段ではあるけど、行使されるべき手段ではない。
「話せばわかる」なんてことが甘いことであるのはわかっている。
でも、多くの場合、いやほぼ全ての諍いの原因はコミュニケーション不足にあると、僕は思うのだ。「話してもわからない」のは、過去という変えようのないものの上に考える場合なのだと思う。
宗教や歴史、そして民族なんかが絡んでしまうことに僕はできるだけ発言を控えようと思っているのだけど、今回ばかりは少しばかり発言したい。
最近歴史を教える機会が多くて、自分でも調べてみたりしているのだけど、ネットが普及してからというもの、特に僕は感じるのだ。歴史は物語りなんだなって。
例を挙げるまでもないと思うのだけど、日本においてもお隣の国との間での歴史認識問題があったりするし、人のアイデンティティが歴史によって影響を受けるのであれば、僕らは多くの物語によって影響を受けていて、その物語は真実のような顔をして、僕らを唆す。
「今お前が不幸なのは、あいつのせいだ!」って。
出来事は、それはそれぞれの立場によって評価が違うってのは当たり前の話。よく言われることだけど、僕らが知ることのできる歴史と言うのは、その時々の権力者がした解釈による歴史だ。
そこから学ぶことは確かに多い。
でもそれは現在を生きる我々が抱える問題の解決に使われるべきではないと思う。
「大東亜共生圏」と言う言葉がある。
この言葉を聞くと、嫌悪感を感じる人もいるだろう。
簡単に言ってしまえば、日本において考えられた言うなればEUみたいな構想。司馬遼太郎の「物語」によると、坂本竜馬とかも考えていたらしい。この構想自体は別に良いとか悪いとかっていう評価の対象になるものじゃない。使われ方が問題だった。
戦中に「植民地支配されているアジアの国々を解放し、アジア圏における経済共同体を作る」大義名分にされたのだ。
多くの無辜なる日本兵たちは自分たちを「アジアの解放軍」とでも思い誇らしかったことだろう。実際、戦後に起きたことを考えれば解放には繋がった。けれど、戦中に行われたことは単なる支配者の交代でしかなく、解放とは程遠いものだったのだと思う。
1941年あたりから始まり、1945年ごろに終わった「戦闘行為」を「侵略」だったか「解放」だったかを決めたのは勝者たるものたちだった。
幸い、と言うべきかその後の日本は経済的に発展し、国全体の意識として他国を恨む必要がなくなったから広島・長崎・沖縄のことでアメリカを恨むような世論は生まれなかった。
悲しいけど、お隣の国々でも日本への憎悪は不景気のときほど辛らつで、政治家たちもそれを人気取りのために使っているように見える。日本でもバブルが弾けたあと、奇跡的なソフトランディングを長い時間かけて行ってきていたときから右寄りな発言はよく聞かれるようになったし、ソフトランディングだと思っていたものが衰退なんじゃないかと言われ始めたころからより極端な右寄り発言が聞こえてくるようになった気がする。
僕ら個人においても同じことが言えると思う。
過去のことを変えることができるのであれば全力で僕は変えたい。
でも、それが叶わないのであれば、未来を良いものにしたい。
そう考えたとき、僕は過去の失敗を二度としないようにと願う。
でも同時に、自分以外の誰かを恨んだりもしてしまうのだ。
そうしないと、今の自分が余りにも惨めになってしまうから。
今の自分に満足して、幸福であるときはきっと僕はそんな風には考えない。
ただ未来だけ見て、あーしたいこーしたいと夢を語ることだろう。
「金持ち喧嘩せず」なんていうけど、お金だけじゃなくて満ちたりた人はたぶん他人に攻撃的になったりはしない。
イスラム過激組織による自爆テロの背景にイスラムの若者たちの「絶望」があると聞いたことがある。
イスラム教は性に関する戒律が厳しい。いわゆる性交渉も結婚するまでは許可されないらしい。しかし、結婚するにはいわゆる結納金にあたるものが必要で、多くの貧しい若者たちは恋をすることもできず世界に絶望してしまい自爆テロに走ると聞いた。
アサシン(暗殺者)の語源になった物語を思い出す。
っとその前に、イスラム教における女性の扱いについて。
イスラム教って、残念だけど男尊女卑と言うか、男性と女性との役割が明確過ぎるほどに規定されている。一夫多妻制と言うのも、本来は大黒柱を失った寡婦やその家族が生活に困らないように、亡くなった夫の家族が残された妻を娶ると言うものだったらしい。男女同権なんていわれている現在の日本では考えられないけど、いわゆる僕ら男の子があこがれるようなイカガワシイものではなかったらしい。でも、とにかく女性についての考え方が中世的なのは否めない。
で、アサシンの物語。
貧しい若者を集めてはハシシ(大麻)を使って篭絡し、ジハードで命を落としたものが行けると言う天国のような体験をさせることで、恐怖を持たない暗殺者を育てていたとかいないとか・・・
で、この天国ってのが問題で、戦士たちには美しい処女が与えられるそうで・・・
(めんどくさいだけじゃない・・・い、いえ何でもありませんw)
もう僕はさすがに貧しいイスラムの青年だったとしても、そんな天国に憧れはしないけど、この話を聞いた大学生のころは、想像したらなんか納得できてしまった。今でも恋すらできないなんて言われたら、絶望しちゃうかもしれない。
先のエントリにも書いた「絶望」だけど、これがいけない。
でも、望みを絶たれるってのは、実はまだ起きていない未来を勝手に予想して自分で決めてしまってるってだけなんだよね。僕らは望みが自分の外にあるものだとばかり考えてしまうけど、実はそれは僕ら自身の中にあるはずなんだ。そして、この自分勝手に絶望してしまうのはその人の過去の歴史で得た知識が原因だったりする。
書きたいことが行くへ不明になってきたので、結論だけ先に書いておこう。
僕らは憎しみの鎖を断たなければならない。
それは自分の体に重くまとわりつくだけでなく、僕らが行き着けるはずの未来も遠く押しのけてしまうから。
ん~気づいたらもうこんな時間。
もし書けたらもっとちゃんと書きます。
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