幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

少年法とコンプライアンス違反

少年が法的に保護されるのは、その育成が未熟であると言う理屈なのだと思う。これが違うと、このあとの話は全く的はずれな話になるのだけど…

同じ事が昭和生れのおじさんたちにも適応されないのだろうか?

不適切にも程があるって言うドラマが話題になっている。簡単に言えば、昭和から令和にタイムスリップしたおじさんの話だけれど、あ、ちなみに僕は見てないのだけど、結局のところ昭和の価値観では成り立っていたことが、令和の価値観とコンフリクトが発生するというところにフォーカスしたドラマだ。

でね、思うのだけれど、何十年もそう言う教育をされてきたおじさんと教育期間が20年未満の少年の未熟さに違いはあるのだろうか?

究極的にはコレたぶんイスラエルパレスチナの話や、日本と中国、韓国との関係にも言えることだけれども、要するに話せばわかるって言う前提があるけど、持っている情報に違いがあれば当然ながら違う判断に行き着くし、それって教育の違いによって恣意的に発生させることができる。

幼い兄弟の為にパンを盗んだジャン・バルジャンの罪と、年齢を偽られて未成年とセックスした大人の罪はどちらが重いのだろうか?

いや、そもそも、罪に軽重の判断が成り立つのだろうか?

デジタル的な判断ができるのだろうか?

と言うか、デジタル的な判断、つまり、ゼロイチの判断で適切なのだろうか?

究極的には、あらゆる判断はゼロイチのデジタル的な判断が積み重なってアナログ的な、スケール上の価値判断に見えているのかもしれないけれど、そもそも、良いとか悪いとかって言う価値判断のベクトルが必要なのか?

な〜んてとこまで考えたけど、僕が言いたいのは世の中はもっとオジサンに優しくても良いと思う。あらゆる世代がそう言うのだろうけど、もっと自分が甘やかされる事を求めても良いのではないだろうか?

 

誰か僕のプライドを傷つけずに上手く僕を甘やかしてくれないだろうか?

 

あ〜つまり、そういう事か。

男、と言うか、男尊女卑の価値観に触れて来た生物学的なオスは、きっと、セックスできるママを求めるのと同じように、僕らは自分に都合の良いルールを求めるのだ。

僕は、僕だけにエッチになる淑女から愛されたいのだな。

つまりは、教育によってどうにかなる部分と、そうで無い部分があることを僕らは知るべきなのではないかと思うのだ。