幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

ここ二十年くらいなのだろうか?いや、徒然草まで含めると、数百年って単位になるのだけれど、いわゆる日常系と呼ばれるコンテンツがそれなりに存在感を得ている。

そして、それはTwitterやらFacebookinstagramやらのSNSによって大きく変わったと、僕は思っている。

いわゆる、日常系と呼ばれるコンテンツの多くは、共感を基礎とした界隈だったはずが、昨今では他人の日常を非日常として消化するようなトレンドが、SNS界隈では、ビジネスと言うか、トレンドと言うかはわからないけど、存在している。

高級シティホテルのナイトプールやらってのは、たぶんだけど、20年前でも都内勤務の高層階に入っているスポーツジム通いをしていた人の一部には日常だったが、インスタバエとか言う価値観が生まれてからというもの、ちょっと手を伸ばせば手に入る非日常なのだと思う。そして、それを日常かのように振る舞うまでがSNS界隈の価値観なのだろう。

でも実は古くからある旅行というのも同じで、ちょっと足を伸ばした先で得た経験を、人は、もしかすると日本人はなのかもしれないが、写真やら記録に残したがる。

かつて、バブル期の日本人のステレオタイプはメガネに出っ歯で、首からカメラを下げてる姿だった。今は、中国人がそうなんだろうけど、イキってるマイノリティに対して悪意を込めた特徴の抽象化と言うのは得てして的を射ている。

カメラがスマホに替り、メガネと出っ歯が、喧嘩してるかのように聞こえる会話に置き換わっただけで、日本人も中国人も大した変わりは無いのだろう。 

そして、きっと人は飽きるのだ。

他の捕食生物から逃れ生きることに精一杯だった頃に比べると、圧倒的に生きることにかかるコストは低くはなったものの、それでも人の生きづらさは絶対的には変わらないのだろう。そこに余裕が生まれて初めて飽きが来る。

つまりは、非日常を求めると言うのは、日常に余裕があるからに他ならない。

脊髄反射で脳みそを使わずにいられる時間に飽きると、人は非日常を求める。

それは、物語であり、他者と言う非日常の人生であり、あるいは旅なのだろう。

そして、僕は今、旅の途上にある。

パチンコにも行かず、女遊びもせず、ただ酒だけはお供にして旅の空の下にある。

僕はどうやら、僕の日常に飽きて来ているらしい。