ダジャレを臆面もなく言えるようになったらオッサンだと思う。
でもさ、ダジャレって実は高度なライムなんじゃないかな?そこに音楽性はないけど。
いや、違う、違うそうじゃない。
雅之さんがファーストテイクで歌って話題になったが、それですらない、僕が語りたいのは。
瞑想のこと。
前にも書いたかもだけど、最近、youtubeの2chまとめ動画にハマっている。ジャンルは色々だけど、家庭板まとめが面白い。でも、今回はオカルト板なのかな?瞑想についてのまとめで、少し思うところあって書き始めた。
瞑想って言葉は多分、中学生の時に知ったと思う。司馬遼太郎の竜馬が行くの中で、竜馬が座禅を歩きながらやろうとして歩き方が特徴的になったとかって言うエピソード。
そのエピソードは、竜馬は死を意識するのに、具体的なイメージとして頭上に岩を描いていたと言う、おそらくは完全な創作だろうけど、座禅と同じような効果を求めた、ある種の瞑想、いや冥想をしていて、歩き方が変わったって感じのものだったと思う。
僕は歩くのが好きで、いや違うな、多分、考える事が好きで、歩くときが程よいバランスで考えられるから好きなのだと思う。だから、と言うには関係は弱いかもしれないけど、創作だったとしても、竜馬のエピソードにはどこかしかに共感を覚えたのだと思う。
ここまでが前提。でさ、僕は瞑想と言う言葉こそ知ってはいたものの、じゃ具体的にそれがなにかって話になるとなんのことだがわからないって状態だったのよ。でね、まとめ見てさ、それがある種の、いや多分紛れもなく、メタ認知の話だと思ったのさ。
瞑想でよく言われる、無我やらってのはさ、結局のところ自我からの乖離、解脱、超越、表現は色々なんだけど、要するに、自己を客体化する主体との合一、ある種のトランス状態なんだと思う。
自分以外のなにかになる。
それは成長の過程で描く、連続性のある自分の進化の結果として夢見る、将来像とは違い、エクソダスではなく本来切り離す事の出来ない自己からの解脱、自己の喪失では無く、自己が何者かの一部であるという合一なのだろう。
今の自分と違う自分になりたいと言うのはエクソダスで、今の自分以外の何者かになりたいのだ。そしてよしんば自分以外のなにかに成れたとしても、それは形の違う自分でしかないのだ。それは自己の迷走で、迷走の果に自分という枠組みすら無くす可能性のある危険な指向性だと思う。
瞑想によって得られるメタ認知的な感覚は、やったことないからわからないけど、きっと自己であり他者であるような、そんな感覚なんではないかと思う。
それを期待して、僕はサウナで瞑想しようと思ったのだよ。