時空の話でもある。
いや、単に車窓から眺める景色に水の張られた水田が増えて、なんとなく空の青さも薄く、夏色の空になって来たなぁと感じただけなのだけれども。
僕は、これらのことを、感じた事たちを言葉にしようとした瞬間に思うのだ。生まれた言葉は更に言葉を生み、やがて僕は飽和する。
普段は、力業で考える方向を無理矢理にでもつけて、ちゃんと筋を通そうとするのだけれど、お酒が入っている時や、このブログに書く言葉を考えるときには、そのまま垂れ流しにする。
時々、良い事を思いつく事もあるのだけれど、大抵は愚にもつかないものばかり。でもさ、逃した魚が常に大きい様に、言葉にして生み出せなかった思いは、それこそ世界を救う様な叡智なんじゃないかと勘違いするほどに輝いて見える。勘違いなんだけどさ。
でも、いつかそんなのを集めて蒸留して、篩にかけて、精製して、純度高めてけば、何かしらになるんじゃないかと思っていてさ、たしかそれを期待して、メモの代わりに始めたのがこのブログではなかったかな?最近はスマホの入力では追いつかないから手書きのメモを導入するか悩み、1年くらい経過しているけどね。
変わりゆくものと、変わらないもの。
時間軸で考えるだけでなくて、条件的な変化も加味しなければイケナイと思うのだ。
そして、主客の立場の差もね。
どう頑張っても、僕らは僕ら自身の客体にはなれない。頑張っても客体だと想定した主観でしかないから。
それらも含めて、万物は流転するのだと思う。
龍樹を勉強しようと思うのだけれども、まだ早い気もする。
ある種の詐欺だとは思うのだけれども、人の世界には言葉に出来ないものがたくさんあって、きっと言葉にした瞬間に喪われる何かが僕らの本質なんだと信じている。
ベクトルと言う世界の捉え方が間違っているのだと思う。つまりは、時空の話。
万物が流転するには、時空が必要で、時空があるから流転するのではないんだよね。
ニワトリと卵ではないけど、時間と因果はベクトル。だけど、ベクトルが在るが故に生まれる矛盾があってさ、遷移というのは、本当に存在するのかな?
まぁどうでも良いや。
僕は、プレモルの香るエールが旨くて、暖かな日差しと、目に映る緑が心地よい。
多分、それだけで、あと少しは退屈しないで済むからね。