SNSの発展は人類のコミュニティの本質がムラ社会であることを証明して見せたのだと思う。
アイデンティティの確立には、他者との差別化が必須であり、それが個人を超えた集団となるとき、集団のアイデンティティは極めて類似した違いを有する存在に対してこそ先鋭的且つ強烈に発現する。
だから、淵の内側にいるものと、外側にいるものこそ激しく対立し、頑固な意識が外骨格のように融通の効かない、ある種安定した"外見"となり、やがてその集団を代表するかのように振る舞い始める。
いやね、何も格好良く見せようとして難しい言葉を使っているのではなくてね、サウナ上がりにビール飲んで、思いついたママを書こうと思うと、出来るだけ短い言葉で書こうと思ってこうなってしまうんだけどさ。
言いたいことはそんなに難しいことじゃなくてね、結局のところ、人って、自分をどう規定するかによって、いろんな判断が変化する。
僕は、本当にダメな人間だと思っている反面、僕よりダメなヤツもいると確信もしており、都合よく僕は、僕の定義を変えている。
そう、僕自身にもたくさんの僕がいてさ、その中で、誰かに言葉で伝える僕自身ってのは、あまたの僕の村の外縁部に近い、極端な僕で、それがあたかも僕そのものって顔して、僕の名前を語っていると思うのだ。
それはさ、わかり易いだけに、尤もらしいのだけれども、決して本当のことにはならない、僕の一側面なんだ。なのに、その僕はあたかも僕自体を代表するかのように振る舞って、他の弱い側面を村八分のようにして、見つめようとしない。そのくせ、そう言う存在が必要だってわかっているのに、だ。
SNSの本質は、統合された人ではなくて、その人のある側面だけでコミュニティが作られているだけなのに、あたかもそれがその人の全人格だと思い込ませてしまうところにあるんではないかな?
僕はさ、前科もあるから言うけど、美しいとかカワイイとか思う女を抱けるなら、その人が人妻だろうが、未成年だろうが、抱きたいとは思ってしまうだろうね。多分、抱いたあとだよね、なんでこんな魅力的な人を抱けたのかって反省して、本来抱けるはずの無い何かしらの瑕疵があるんじゃないかって疑うのは。そして、どうにもならない後悔をするんだ。
多分人は、そんなもんなのだと思う。
だから、とは言わないけど、もっとやりたいように生きて良いのではないかな?
家族だとか友達だとか、恋人だとかって関係性のテンプレートに、あるべき姿に振り回されずにさ。