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幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

下種の世界

昔からね、僕は2元論を訝しく思い、それでいてどこか信じており、どっちつかずの立場を取っているのだけれども、究極的な判断を求められたときに、自分のあり方を問われるような、そんな判断を問われるときに、僕はこの2元論を意識せずにはいられない。

 

2元論と一言で言っても、いろんな2元論がある。

「精神」と「肉体」

「生」と「死」

「被害者」と「加害者」

いろいろあると思うのです。

でね、とりあえず言いたいことを言うと、「罪は許されるのか?」ということを考えた。

 

そもそも、なのだけれど。「罪」ってのはどうして生まれるのか?

以前も少し触れたのかもしれないけど、「罪」が生まれるには、そもそも、ルールがあるからなのだと思う。それは現世的な法というルールだけじゃなくて、あるいは宗教などが想定している摂理などでもよいのだろう。そこから外れるのが「罪」と規定されているのかな?外れたものを元のルール内に戻そうとするのが「罰」なのだろうか?それとも、「罪」の重さによっては、そのルールのある地平から完全に排除することも含めて「罪」を規定しているのだろうか?

 

またまた、そもそもなのだけれども、なぜこんなことを考えたかというと、真央さん?だかの癌のニュース。それとベッキーさんの復帰会見。このあたりのニュースが僕にこのことを考えさせるのです。

正直なところね、僕にとってはどうでもいいの。知り合いでもないし、彼女らの動向が僕の人生に与える影響はほとんどない。そりゃ同情心やいろんな感情が芽生えるのはわかるのだけど、僕は彼女たちに対してあまりにも関わりがなくて、テレビのニュースで話題にするほどの内容なのかという疑問の方が先にたつ。

まだ、真央さん?の件は乳がんの啓蒙みたいな意図を持たせるのならより社会性があるといえるのだろうけど、不倫報道はどうなのだろう?というか、復帰しますってのは「がんばってください」でいいんじゃないだろうか?

ファンキーの加藤さんやら円楽さんの不倫騒動なんて正直どうでもいいし。昔から僕はワイドショーが好きじゃないのだけど、20年前の小中学生じゃないんだからさ、誰と誰が付き合ってるだとか、どうでもよくないのかな?

で、今回真央さんの報道で感じる一番の違和感は主役が海老蔵さんになってるところ。なんで?

もちろん真央さんの旦那さんだし、芸能の人ではあるし、病人である本人にインタビューをするのもどうかとも思うから、そこはいい。ただ、そのインタビューに対して僕らは「がんばってください」以外の何の感想も持つべきではないのではないだろうかと思うのだ。

表層上の報道は、海老蔵さんを「悲劇のヒーロー」的な扱いなのだけど、なんかどこかに僕は、それだけじゃない感じを感じ取ってしまうのだ。そこに僕は少し不快感を感じる。ま、これはこれで、僕の価値観なのだけどね。

今回の報道に仕方に少々問題を感じるのは、たぶん海老蔵さんの「事件」のせいだと僕は思ったのだ。詳細を知らないので、間違っているかもだけど、でも、刑事事件に関わっていたんだよね。どれほどの関わりなのかはわからないのだけど、少なくとも彼自身も物理的にも社会的にも無傷ではいられなかった。それで、その罪を償えたかどうかはわからないけど、少なくとも今回の件とは関係ないよね。だけど、何かそれを感じさせる報道に感じてしまうのは穿ち過ぎだろうか。

そんなこんなから、冒頭の「罪は許されるのだろうか?」と言う問いにたどり着くのだけれど、もっと展開すると「罪は誰に許されればよいのだろうか?」になるのだと思う。この手の話をするとさだまさしさんの「償い」のお話が出てくるのだと思うのだけど、あの歌の中で「罪」は「許されて」はいない。「被害者の妻」からは「許し」らしいものを得られたようだけど、「被害者本人」そして、何よりも「加害者その人」の罪を許されてはいない。この歌だけで、判断するわけではないのだけれど、僕は「罪」は許されないと思っている。ただ、同時に罪を裁ける人も、他人の罪を叫び続けられる人もいないと思っている。

僕はキリスト教徒ではないのだけれど、イエスの言ったとされる「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言う言葉を思い出す。他人の不倫をあげつらって、あーだこーだと言っている人が彼らに石を投げる資格があるのだろうか?

古い話なのだけれど、同じ社会でかつて「失楽園」やら「マディソン郡の橋」やらって映画が流行った。不倫をテーマとしたこの二つの映画は、失楽園は過激な映像表現で話題になったけど、それ以前に原作の物語が受けたのだろう。二つともそれなりに年を取った人の不倫で、社会的な立場やら何やらで忘れていた感情の再生のお話だから許されるのか?と言うか、許される不倫とそうでない不倫があるのはどうなの?と思うのだ。

で、たぶんここにも2元論ってのが関わっているのだと思う。要するに、被害者と加害者と言う決して交わらない2つの次元を自由に行き来してしまえるのだと思う。

それはグリーンピースの人たちが血の滴るステーキを食べてたりするのと同じくらい違和感があることなんじゃないだろうか?もっと言ってしまうとさ、不倫報道の写真ってさ「盗撮」じゃないの?それはまるで桝添さんが「不適切ではあるが違法性はない」って言ってるのと同じような、いや、それとは逆で「違法性はあるけど、社会的意義がある」とでも言うのだろうか?

「社会的意義」ってなんだろ?

社会が興味を持つから?

興味があるからだったらポルノと変わらないじゃない?

下種が下種を下種だと蔑む世界。

自分が下種でないとは言わないけど、少なくとも他の下種を非難しない下種であろうと僕は思うのだ。

出発点からまた違う着地点に着地、って言うか落下した。

無理やりタイトルに着地させたんだけどねw