幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

Memo という名の言い訳

僕は甘い。

自分に対しても、他人に対しても。

 常々思うのだけれども、僕の甘さというのは人をダメにするタイプのものだ。

それも、自分に対しても、他人に対しても一緒。

 

こんなことを言うきっかけとなったのが、僕に対する、かつての教え子が伝えてくれた評価からだ。

その人は言う。

「今の環境の方が、前室長の下で働くよりは君たちの将来のためにはなる・・・」

ってね。

これは負け惜しみでも何でもなく、僕も本当にそう思う。

僕の下で働くのは楽だけどね。

怒らないから。

と言うか、怒るほどにたぶん真剣になれていなかったのかなぁ?

怒りと言うものが僕にないわけじゃない。

ピーキーな性格って言われてしまえばそれまでなのだけど、僕が怒りを感じる、と言うよりは自覚できるのは、たぶんその怒りに何かしら正当な理由をつけられるときだけなのだと思う。だから本当はもっとたくさん怒っているのかも知れないのだけど、表面に出すのは自分が絶対に正しいって思えるときだけなんだと思う。

つまり僕が怒らないのは自信の無さ故なのかもしれない。

だけどね、それでも言い訳をさせてもらうと、僕は同時に怒ることが無意味だとも思っているんだ。

声を荒げて、暴力的に振舞って、時に本当に暴力に訴えるような怒りと言うのは、ハッキリ言って幼稚な相手のコントロール手段だと僕は思っている。幸いと言うか、なんというか、僕はそこそこガタイが良いので大抵の場合相手が怒っていたとしても、恐怖を感じることはない。申し訳ない気分になるか、相手を徹底的に見下すかのどっちかの態度にしか僕自身がなれないのだ。怒っている相手に対してそのようにしか感じられない僕が怒りを露することが、そのくだらない恫喝を目的にしているようで、どうにも好きになれない。

もちろん、教育っていう領域では怒って見せることが必要なこともある。けどね、その怒り方ってすごい大事だと思うの。

よくね、塾とか学生のアルバイトの多い現場ってさ、こんな言葉が言われる「社会出たらそんなんじゃ通用しないよ?」ってね。

これ、もしかしたら親が子に、先輩が後輩に、先生が生徒に言うテンプレートみたいなものかもしれない。でも、僕は思うの。これさ、無駄な伝統じゃない?

僕が中学生のころ、やんちゃな先輩はサルみたいなものだった。目合っただけでボコられたりする。理不尽なしごきや、暴力、そんなものが溢れていた。そして、さらに僕より上の世代は激しいそういったものに晒されていたなんて言う。でも、今の子供たちはどうだろう?先輩後輩はもうお友達同士みたいになってるし、僕の時代の理不尽さってほとんど聞かない。一部野球部みたいなとこでまだ残っているみたいだけど、残念ながらそんなことをしている部活は強くはなれない。だって無駄だもん。

でもね、やっている側としては理由があって、やっている。つもりになっている。

数年前に話題になった相撲業界の「かわいがり」と同じようなものだよね。

それがさ、無駄ってわかってきたからどんどん無くなっているんでしょ?

僕はね、だとしたらこう言いたいんだ。

君らが社会に出るまでに無駄な風習は無くせるようにするからってね。

自分がやられて嫌だったことをさ、社会とはそういうもんだからって、後輩たちに行うってのは、優しさのようでいて、僕には無責任にも思えるのだ。

まぁ、言い訳なんだけどね。

怒るのが嫌で、誰にも嫌われたくなくて、それでいてちゃんと敬意も払ってもらいたいって言う贅沢な僕の言い訳でした。