基本は続き
だけど…まぁアレです、いつもの私信と言うか、情けない泣き言です。
さて、リベラルアレルギーについて。
僕が子供の頃には、周りに多くの解決されるべき問題があって、テレビや新聞、雑誌と情報ソースが限られていた時代では、問題を多くの人と共有できていた。
でも、ネットが世界を繋げて、エコーチェンバーやらフィルターバブルやらで、共有できる問題は少なくなって、対立は激化している。
僕の子供時代にも解決されないどころか、注目される事も無かった問題はいくらでもあるだろう。それらを解決するのが大事なのもわかる。でも、それよりも、もっと優先される問題として顕在化していない、いや、顕在化してはいるけど諦めなのかまともに取り扱われない問題があるのではないかと思う。
優先順位の問題を語りたいわけではない。沖縄の基地問題も、川口のクルド人問題も、外国人参政権も大事な問題なのはわかるけど、それを第一優先になる当事者以外の人の活動には僕は疑念ばかりが大きくなる。
今はおかげさまで、人並みに稼げていて、生活も余裕はある。そんな僕にとっての問題は、明日食べる食事の心配でも無く、支払い後の残金に不安を覚えるでも無く、好きな人に会えない事だったりする。
なんならもっと正直に言うと、僕は数千万の借金を負った事があり、その頃は…いや、その頃も好きな人に振り向いてもらいたくて、いや、振り向いてはもらえてたけど、バカな夢のような生活を目指して欲を出して投資に失敗した。
その時に僕はすべてを失って、唯一残ったのが生命に対する執着と、家族に対する執着だった。
そして今、そんな経験をした僕が、真剣に生きる事を放棄しそうになっている。
放棄はしないけどね。
ただ、僕の命で贖える何かがあれば、あまり迷わない気がしてしまっている。
その当時の僕には地球温暖化やら人権やらの問題なんて、本当にどうでも良かった。
僕にとっての問題はお金だったし、それ以外の事なんてどうでも良かった。
自分を浅ましいとも思う。
自分勝手で、狭量で、とことんまで自分が嫌いだった。そんな僕にでも大事だと言ってくれて、手を差し伸べてくれた家族や友人には感謝してもしきれない。なので、今の僕は悲しいけれど、家族や友人の為になら、進んで命を差し出す心づもりではある。
だけど、結局僕の本質は自分勝手だ。
もし、好きな人に会えたら…会って僕が彼女の為に生きられるのなら、きっと僕の命の価値は僕の中の彼女の価値と同じくなる。
それは宇宙が滅びるよりも、彼女の笑顔を優先する価値観だ。
彼女が僕に向かって微笑んでくれるなら、そうしないと微笑んでくれないなら、手にした核ミサイルの発射ボタンを押せそうな程の価値の偏りがある。
さて、僕の私信はこれくらいにしよう。
僕がリベラルアレルギーになったのは、ある種の近親憎悪なのかも知れない。
僕の中のリベラルは、特に最近は、いわゆる当事者性の無い問題に対して首を突っ込み、オナニーのように自分の理想を押し付けて気持ちよくなってる人達に見えてしょうがないのだ。
それは、翻って見ると、好きな人への僕の態度だし、唾棄すべき態度だと思う。
人類は平等であるべき、人権は保証されなくてはならない、戦争はなくなるべきだ、それには同意する。
でもさ、実際の僕は仕事で大した働きもせずに僕より高い給料もらっている年上上司にイラッとしてるし、自分より若い子達の成長は願っていつつも僕の立場を脅かさないように願っているし、同じ歳の社長に嫉妬もしてるし、他人から悪意を向けられたら暴力を解決の手段として放棄はしないし、何よりも僕の価値観が偏っている自覚はありながら、自分ではどうしようも無くなっている。
それってさ、リベラルな人達と大して変わらないのだと思う。
違うのは、当事者性。
全てのリベラルな人がそうだとはいわないけと、身につまされた真剣さも、僕が感じてた追い詰められた感もなく、川口に来てクルド人を支援する人達のように、そこに普段いないのに自分の理想の為に、当事者の困難を無視するような傲慢な価値観は一緒なんだと思う。
だから僕はリベラルアレルギー。
多分、これが言葉の限界なのだとも思う。
愛しています。