あけましておめでとうございます。
一応、喪中ではあるので、大っぴらには新年を祝えないし、昨日の能登の地震を思うと、手放しに新年を祝えないとは思う。
でさ、前回の続きみたいな内容にはなるのだけれども、禍福に絶対値があるのか?と言う疑問を持った。
禍福は糾える縄の如しなんて言い方がある。そこまでの含意があるかは知らないが、禍福を量的なものとして捉えた場合、縄がねじれたりしていない限り、縄の幅的な意味で禍福は同量になるのだと思う。そして、おそらくは縄と言うのだから縦方向?縄の断面をxyとしたらz方向の量的な変化もあるのだろう。そして、おそらくはこのz軸は時間だ。
それを前提として、なんだけど、人が禍福を感じる具体的ケースを考えてみる。
かつて若い頃に、38連勤したあとのたった1日の何もない日に僕はとてつもない幸福感を味わった。その事は、否定してない事実だけれども、その39日間と言う期間で考えてみると、僕の禍福グラフは客観的に幸福だったのだろうか?
おそらくではあるが、39日目の僕の体感では無い客観的な幸福度を測ることができたとしたら、その状況は外形的には決して幸福な状態だとは言えないだろう。むしろ、禍福のベクトルで言えば、禍の方向性、イメージ的にはマイナスの領域にあったのだと思う。
要は、視点と落差なんだと思う。
38日目、いやおそらくは次に休める日が決まったその日から39日目を期待していた時はそれはそれで、外形的な見え方はさておき、僕の中ではxy軸のどちらかの軸であるはずの禍福ベクトルでは幸福方向へ向かっていたのだろうし、そこから少しずつではあるけれど、幸福感を先取りしていたことだろう。
そろそろ、めんどくさくなって来た(笑)
ここから言いたいことは、
·今という瞬間に、禍福ベクトルでのプロットは可能か?
·視点を変えることで、感じる幸福感を変える事は論理的に可能だが、実際的にも可能か?
などなどなんだけど、なんか今はそれを考えたり、書いたりするモチベーションが湧かない。
湧いたら書く。あと覚えていたら。
こんないい加減な僕だけれども、今年も生きてゆく。
御縁があればこれからもよろしくお願いいたします。