40にして不惑、と言うらしい。あと半年程で僕も迷わず生きてゆけるのだろうか?残念だが、今のところそんな兆候は毛ほどにもない。
毛ほどにも、思い出したのだが、日々薄くなってきている。もちろん毛髪の話だが。
20代のころより、決してフサフサとは言いがたかったが、ここ最近は自覚するほどに薄くなってきており、悩みと言うか、迷っている。
僕の家系は由緒正しきハゲの家系で父母のどちら親、つまり僕にとっての祖父はハゲていた。そして、直近の同性の親近者たる父もかなり薄くなっており、僕は悲しいかな、能力や真面目さなどは継承せず、一部の型質だけ継承しているらしい。
何を迷っているかと言えば、いつスキンヘッドにすべきという時期の問題だ。
予てから僕はこの血の持つ宿命をある種の諦めと共に受け入れ、覚悟を練る訓練を積んで来ていた。
その為いつでもスキンヘッドにする覚悟はできている。しかし、だからこそ何時なのかと迷うのだ。
いつかハゲる。それは、僕にとって避けられることのない運命であり、受け入れ、その日が来ても決して狼狽えず、心静かに迎え入るものであった。
だから今更ジタバタしようとは思わない。しかし、迷うのだ。どのタイミングでスキンヘッドにして、今後の憂いと訣別すべきかを。
死に際を潔く。かつて我らが祖先が人生の命題としたように、僕は髪の毛の散り際を華々しくなくとも、せめて潔くしてやりたい。
しかし、とは言え犬死にであっても困る。古典の熟柿と法師のように、早まった思い違いの潔さは、潔い以上に愚かだから。
スキンヘッドにするというのは、ある種の安楽死に他ならない。その最後を人間の尊厳を持たせるために選択する尊厳死と言えなくもないが、そこまで深刻な話ではない。たかが、他人からどう思われるかってだけの問題でしかない。
結局のところ、スキンヘッドにすることの意義は、自分は髪の毛に執着していないという世間に対するアピールでしかなく、逆に言うとそのアピールをすることはつまり、メッチャ髪の毛気にしてんじゃんっていう矛盾を孕むのだ。
そう考えると、いろいろ堂々巡りになる。これを髪の毛と命を置き換えても、きっと同じことだろう。
禅なんてアートネーチャーやアデランスの広告を見つめて、キリッとした顔してるおっさんにとっては、それほど難しいことではないのかも知れない。
久々の投稿がこんな内容で、あれですが。
僕は元気です、髪の毛以外は。