時間を持て余してしまっている。
やらなきゃいけないことは何ひとつないのだけど、やりたいことはたくさんあるし、それをやりゃいいんだけど、「今じゃない」感。
この「今じゃない」感を突き詰めてゆくと、結局のところ、ぐうたらな自分ってものに行き着いてしまうのだけれども、物はいいようで、自分自身の非を認めるようなことを言って、実はそこにエクスキューズを求めてしまってはいまいかと、堂々巡りに陥る。
人によっては不快に感じるかも知れないが、例えて言うならば、ムラムラしているのに風俗サービスを躊躇う男性の葛藤に近いのかもしれない。欲求は明白だけれども、その欲求が一時的なものだとわかっているし、倫理的だったり、世間体的だったり、あるいはフェミニスト的な理由で、その行為を避けたいと願う気持ちや、あるいはもっと打算的に、もっと安価な代替行為でさえ満たされるであろうと言う予想。いずれにしても、その行為をすることによって発生するであろうと予想する後悔の念に、その行動をとる以前から苛まれてしまうのだ。暇を持て余してしまったときの堂々巡りはこの感覚ににている。
この辺のことをもっと単純に突き詰めてゆけば、こういうことなんだと思う。
飢餓状態の時にはきっと人は何でも食べたい。だけれども、「おなかが空いた」くらいのテンションでは、嫌いなものを避けるだろう。同じ「食べたい」欲求であっても、欲求のレベルの強さというか、その深刻さによって選ぶ選択肢は変わってくる。たぶん性的欲求ってのはこの「おなかが空いた」レベルまででしかないのだろう。人は本当に強い欲求を持ったら迷わない。
食べ物の例で言えば、飢餓状態ともなれば、もはや食欲ではなく生存欲求という別のものになっているのかもしれない。そして、食欲と生存欲求の境目と言うのは、人ぞれぞれで違っていて、残念ながらその基準を共有できないところに人の世のいろいろな矛盾が生まれてしまうのではないだろうか。
突然、ムラムラしたときの悩みから世界のあり方へと昇華させてしまうのだけれど、実はこの世界の多くの問題には解決策が既にあって、でも、それがなかなか適切に実行されないの理由と言うのは、僕がそういうお店に行かないのと同じような理由で実行されないのだと思う。
だってさ、他者だけじゃなくて本人から見たって、問題の深刻さは明確にはわからないんだもん。世界第3位の経済大国で餓死者が出る理屈ってのもこの辺にあるんだと思う。
世界から貧困をなくすために必要なことは何かと言う議論はあまたにされていて、いろんな意見がある。「貧しい人に魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えるべき」なんて言われ方をするけど、今にも飢えて死にそうな人に悠長に魚の取り方を教えるのは無理があるし、食べる魚を選ぶレベルの貧困者に与えるべきは魚ではなく、その取り方であるべきだろう。で、まぁ、こういった個々のケースではやっぱり単純に線引きできない部分があるけど、それでもやっぱり解決策は既にあって、問題はやっぱり線引きの難しさなんだよね。
でね、個々のケースではなくて、マクロと言うか大きい話で言うとね、実はもう世界から貧困を無くす方法と言うのはわかっているはずなのです。でも、それが実行されない理由ってのがたぶんあるのです。
貧困を無くすひとつの方法としては、開発途上国に対する債務の帳消しとかして、開発途上国の先進国に対する債務払い分を効率的に貧困対策に充てれば、少なくとも飢餓状態の人々はいなくなるのではないかと思う。でも、それをできないのは、そうすることで、今日本が陥っているような対外的な産業の優位性の喪失の恐れがあるとか、あるいはそうしたところでその国の一部の権力者の利権になっちゃう、とかそんなものなんだと思うのです。それってなんか、僕がそういうお店行くの躊躇うのと同じレベルの悩みのような気がするの。あれやこれやと悩むけど、結局のところどうしたいのかって言う想いの強さと言うか、一歩踏み出す勇気と言うか、そんなものが足りないだけなんだろうって思うのです。
でね、思ったの。
世界をもっとシンプルに、考えることができたらいろんな問題が片付くんじゃないかってね。それは個人の問題にも言えることだと思うから、僕はまず堂々巡りに陥ったら、シンプルに考えて、まず動いてみようと思う。そうして後悔するのも、ひとつの収穫だろうしね。
と言うことで、とりあえず、僕はエッチな動画探してこようと思うw