なんてストレートなタイトルだろう。
今、いろんな意味で余裕がない。
時間的にもかなり逼迫しているのだけど、でも書かずにはいられない。
と、言うのも、僕は北斗の漢の如く、愛に迷う人生を送ってきたのだけれど、ここへ来てその迷走はさらに激しくなり、もう歩くことさえ嫌になってきてしまった。
人が道に迷うのは、歩み続けているから。
歩みを止めれば、それ以上に迷うこともない・・・はず。
ならば、迷っていると自覚している今はその歩みを止めて、地図を眺めるときではないだろうかと・・・恋愛の地図ってあんのか?
自転車のナビ使ってても道に迷う僕に、恋愛の地図がもしあったとしても、どれほど役に立つかはわからないけどねw
とぼやかしてますが、要するに失恋しそうなのです。
で、まぁここ2日くらいかなり深刻にいろいろ考えてみました。
そんでもって思い至ったのが「愛のジレンマ」と言う言葉。
「ヤマアラシのジレンマ」と言うのがある。
ヤマアラシはその身体に纏った棘で、互いを温め合おうと近づけば、互いに傷つけ合ってしまう。ん~恋愛ってこうなのかな?
でも、僕はさらに考えてみて、こう思った。
「愛ってものは、その感情を持った段階で完結していて、何か他の行動の理由にはならないのではないだろうか?」
と。
もちろん、多くの場合「愛」と言うものが行動の源泉となっている。
でもね、それって初動こそそうかもしれないのだけど、実はその後の行動の源泉は「愛」を源泉とした「欲」なのではないかと思うのです。
これは男女の愛だけでなくて、友愛や親子愛などにも言えることだと思うのだけど、愛情を源泉とした行動は確かに相手への善意から生まれてきている。でも、この「善意」ってのが厄介で、人によって善の定義や幸福に感じること、良いと思えるものって違う。だから行動や言葉に表すとき、そこにはその人の純粋な愛情だけではなく、自分自身の「善意」を相手に「押し付ける」あるいは「提案する」し、受けれてもらいたいと言う欲求が含まれているのではないかと思う。要するに、愛情表現をするときに、その表現によっては、自己満足どころか相手に愛情を押し付けることになると思うのです。そして、その愛情の刃はその素材が善なるものであるからこそ質が悪い。まるでヤマアラシの棘のように、一番守りたい相手を傷つけてしまうことにもなりかねない。
悪意なんてひとっつもない。
でも、時に人を傷つけてしまう。
以前見た映画「フランケンシュタイン」で、こんなようなセリフがあったと思う。
「怒りとは、受け入れられなかった愛の暴発だ」
もし「愛」と言うものを僕がうっすらと定義している「その関係にあるだけで、幸福を感じられるもの」と言う関係性を表すものであれば、要するにここで受け入れられなかったのは「欲」なんではないだろうか?
もしそうならば、僕は・・・
この想えば幸福に感じる愛の残滓を胸に欲を捨てるべきなのだろうか?
I miss you