今、たまたま教育テレビで「勉強のコツ」みたいなものを放送している。
そこで言われている
「勉強を取材だと思え」
これ実は随分前から僕は取り入れていた。
かつて自分が中学生や高校生だったころから、この考え方は変わっていなくて、今、子供たちに接しているときにこのお話をする。
すると多くの子供たちが「めんどくさい」と言う。
勉強する学習する目的は?
単純に多くの子供たちが「いい点数」を取ることを目的にして勉強してしまう。そうなると、過去のテストの傾向から問われる知識を短期的に獲得するのが最も効率的になる。でも勉強の目的ってそれか?文部科学省の定める学習指導要領は「いい点数取れる子」をたくさん作るために作られているのか?違うと思う。理解することが必要だと思われる知識を体系的に学べるよう設計されているもののはず。
原因はハッキリしている。大人の理屈を子供の世界に持ち込んだからだ。
「結果が全て」と言う大人の世界を感動に溢れた子供たちの世界へ持ち込んだ
社会人と学生との違いを「社会人は結果が全て」などと言う人がいる。あるいは営業職の人ならこんないわれ方もしたことあるんじゃないだろうか「数字が全て」。
僕は、こう言われた時に疑問を感じながらも、結果や数字を出して評価され、後輩に同じことを言ってしまったことがある。評価されることが正しいことだと思い込むのは大人でも子供でも同じだ。だから、一度評価されると、その結果を出そうと結果ばかりを求めるようになるのは子供でも大人でも同じなんだと思う。
子供の勉強環境の問題点
子供の持つポテンシャルは大人からすると信じられないものがある。東海道線の駅名を全部言える幼稚園児とか、音を聞いただけで電車の型番を言い当てる小学生とか、その種類は多彩だ。(例は鉄道関係ばっかりだけどw)こう言った子供たちの信じられない能力は多くの場合、本人の興味の方向とそれによって無自覚に行う努力、そしてそれに対する親などの大人からの評価によって強化される。
このポテンシャルを大人は知識の詰め込みに使ってしまった。そして、重箱の隅をつつくような「それ聞いてどうすんの?」みたいな問題を作成し「これを知っているなら、このあたりまで理解しているだろう」と言う感じで勝手に体系化してしまった。しかし、それは大人側が勝手に作った思い込みであり、実際に体系的な知識が身に着けていることの証明にはならない。
実際に子供に勉強を教えているとこんなケースに出会うことがある。
例えば、単語のテストを作ったとしよう。単語表をプリントで作り、そのままの形で一部をブランクにして出題する。すると8割9割の正解率をたたき出す子が、その表にある単語を入れ替えて出題するとほとんど正解できなくなる。これはつまり、単語のスペリングと意味を覚えているのではなく、その文字列が書かれていた場所を覚えているだけなのだ。
良い点数だけを取ることを目的にしている勉強と、理解し、その知識を使用できるようにすることを目的にした場合ではその行動は変わってくる。
子供たちに僕ら大人が望む能力はどちらなのだろう?ネットで検索すれば出てくるような知識の集積を子供に望むのか?
学歴だとか、知識の量とか、そんなものが人生の豊かさを決めるかのように思い込まされている子供たちが僕は哀れでならない
もちろん、いい給料もらってれば、傍目にはいい暮らしもできるだろうけどね
でもそれが幸せだとは限らないもの