幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

僕のせいじゃない!

なんて言えば良いのかな?

多分だけど、誰もが、どこかにそんな思いあるんでしょうね。

 

40前に派遣社員になり、月々少ない給料を嘆くのも。

韓国との水掛け論も。

地球温暖化も。

トランプ大統領が政府機関を閉鎖させるのも。

 

全部全部僕のせいじゃない。

 

最初の1行以外は、誰もが同意してくれるだろうけど、最初の1行だけはね・・・どう考えても僕のせいだし、僕の選択の結果。

 

でも、きっと最初の一行さえ、僕のせいじゃないって言ってしまうこともできるのだと思う。

 

僕の生まれた1979年。日本はまだバブル景気が始まる前?で、僕が育った80年代、バブルは弾けた。以後、失われた10年、20年?僕が大学を卒業したころは、就職氷河期って言われて、同世代の3割ぐらいが、非正規雇用?未婚率も多くて?だから僕のような境遇の人はいくらでもいる。

僕らが育った時代が悪かった。

って言ってしまうことも、まぁできなくもない。

ただ、言ったところでどうしょうもない。

 

なんかさ、なんでもそうなんだと思うのだけど、誰かや何かが絶対的に悪いことって、世の中そんなには多くないと思うのです。そりゃもちろん被害者の人にそんなことを言うことはできないのだけれども。

 

少し前に発生した仙台かどこかであった、いじめを苦にした親子心中事件。

事件自体は、痛ましいし、怒りを覚える。

けど、報道で言われているように、学校側の対応や市の対応だけが悪いのかって話になると僕は覚えた怒りの矛先に困るのだ。また、加害者である子供たちの親が言ったと言われる「今更あやまれというのか」という言葉に対して、やるせない気持ちにもなるし、なんか仕方ないなという思いが出てくるのだ。

まぁそれ以上に、ネットでの加害者特定の動きに反吐が出そうなのですが、それはまた別のお話なので・・・ここでは割愛します。

 

もちろん学校の対応や市の対応が不十分だった可能性もあるし、そこはしっかり調査なり反省して、今後同様の事件が発生しないよう、最善を尽くす必要がある。でも、それで済ましてしまって良いのだろうか?結局、市や学校って単位でできる反省って「行動」の面、結局のところルールの見直しでしかないと思うのだ。たぶんいじめの問題を考えるとき、もっと別のアプローチが必要なんだと思う。

 

お亡くなりになった方を、その家族を慮れば、これから僕が述べようとしていることは、例えそう思ったとしても、それを口に出すべきではないだろうし、ましてやこうして文字に残すようなことをすべきではないと、僕自身も思う。だから、あえてこう書いた上で、書こうと思う。

 

僕はこれから、ある種、不快に思われることを書きますので、ご興味のない方は御覧にならないようにいただきますようお願い致します。

 

 

 

 

 

要するにね、イジメの加害者、その保護者や関係者が他人行儀になったり、被害者が悲しい結論に至ってしまう理屈は、僕が自分の境遇を時代のせいや社会のせいにする理屈と同じだと思うのだ。いじめの問題を加害者やその周りにだけ責任を問うてしまう限りどうしょうもない、と言うしかない。被害者も含めて加害者も共に成長する必要があると思うのだ。

 

具体的な例を出すとさらにイヤラシイ感じになるのだけど、あえて書こう。

 

例えば、イジメの事実があったとして、そのイジメの加害者に聞き取り調査をした結果、被害者の身体的特徴をからかったことが認められたとする。イジメの加害者に対して被害者の身体的な特徴をからかうことで、被害者が苦痛に感じていて、それを今後しないように指導し、加害者はその通りにするとする。それでイジメは無くなったのだろうか?

被害者は、加害者たちから直接的にその身体的特徴を揶揄されなくなったり、からかわれなくなったりしたとして、加害者たちの視線が変わったと感じることができるのだろうか?たぶん、そんなことはなくて、被害者はきっと加害者達が無言でも無言の何かしらを感じてしまうのではないだろうか?表面だった揶揄やからかいが無くなったとして、友達のほんのチョットした仕草やヒソヒソ話でさえ、自分のことを笑っているように感じてしまうのであれば、イジメが無くなったことにならないのではないだろうか?

 

少し話は変わるのだけど、僕は昔こんなニュースを聞いて、なんかすごく印象に残っている。僕が高校生ぐらいの時だったと思うのだけど、男子高校生が見知らぬ女子高生に対して飛び蹴りを食らわせ、大けがさせたという事件。犯人の男子高校生は「見て笑われたと思った」と供述しており、当時同じ高校生だった僕は「馬鹿だなぁ」と思っていたけど、同時になんかちょっと加害者の気持ちがわかってしまって怖かった。高校生ぐらいの多感な時期に他人の目は怖くて、馬鹿にされないように、強がっていたから。女子相手に飛び蹴りしたから、事件になったけど、多分高校生ぐらいのときの喧嘩の理由って大体こんなものじゃなかったろうか?

 

街中で「何見てんだよ?」ってヤンキーに絡まれることあったでしょ?

 

まぁヤンキーの「何見てんだよ?」は、カツアゲとか、その他諸々の目的があってのことだと思うのだけど、イジメの被害者が加害者に対して抱く思いは、似たようなものではないかと思うのだ。その表れが、恐怖か、その恐怖から生まれた怒りかの違いでしかないのではないだろうか。

結局、被害者と加害者っていうのは暴力や精神的な苦痛の多寡で決定するものであって、イジメの被害者が暴力でイジメの加害者を攻撃すれば、イジメの事実は無視されて、暴力の加害者となってしまう。

 

じゃ、どうすりゃいいのさって話だけど、話を身体的な特徴についての話に戻すと、口で言うのは簡単だけど、理想と思われる解決策は既に分かっていると思うのです。被害者も加害者も、被害者の身体的特徴をちゃんと「特徴」として受け入れること。

この難しさってのは、多分だけど被害者側においてより難しい。事実がないのに、他人の笑い声が自分の身体的特徴を笑っていると思い込んでしまうのような自覚を無くすには、価値観の変革が必要になる。

自分の身体的な特徴を恥じたり、ネガティブにとらえるのは、イジメによって植え付けられた価値観と言えるかもしれないし、そのイジメの事実が無くなることで、ある程度は改善されるものかも知れない。でも、自分自身が、そう思わなくなるために必要になるのは、強い価値観の変革が必要になると思うのだ。

 

被害者の側からしたらいい迷惑かも知れないけど、加害者含めイジメの関係者が全員価値観の変化が必要になると思うのです。

 

実際にそんなこと言われても、と言われてしまうかも知れない。

事実そういうときもあるだろうし、僕の考えが常に正しいとも思えない。

 

でもさ、僕がもし、自分の派遣社員である境遇を、未婚である境遇を世間のせいにして、時代のせいにして死を選んだとして、もしかしたら多少報道されて、社会的な意識へ影響を与えるかもしれないけど、僕自身や、僕の家族にとって見たらどうしょうもなくね?

 

そんなことするくらいなら、僕自身が資格でもなんでも取って正社員としての働き口探す努力をもっとすべきじゃね?と言うか、むしろ僕は待遇にさえ問題がなければ正社員である必要性を感じていない。正社員になって会社にしがみつくしかできなくなったとき、たぶん会社に居場所が無くなるんじゃないだろうか。ってお話も、また別のお話なので割愛。

 

んでまぁ、僕らは被害者であっても、いや、むしろ被害者であるときこそ、本当に酷いことを言うようだけれども、何か問題があって、その問題に対して誰かのせいにしているだけじゃ解決しないってことも学ばなくてはならないのだと思うのです。

特にいじめの問題においては、だれが悪いとか、だれの責任だとかってお話はさ、大人の問題であって、子供の間で発生しているイジメの解決とは別のことだと思うのですよ。

 

そんなこと言うと、韓国との水掛け論も、地球温暖化も、トランプ政策も、他人事では済ましちゃいけないことってなるんだけどね。