25−26年の年末年始の休みは多くの人にとって9連休と言う、近年稀に見る長期の連続した休みだった。僕もご多分に漏れず、9連休ではあったのだけど、結論から言うと、何ら生産性のない9連休だった。
ただ、まぁ負け惜しみと言えばそれまでなんだけど、思索は十分に出来たと思う。
で、これも結論から言うと、ノイマンやアインシュタインは僕より幸福だったのか?と言う問いに行き着いた。
説明するまでもなく、フォン・ノイマンやアルベルト・アインシュタインは人類史上最も賢いと言われている人であるのは間違い無いと思う。ただ、彼らが彼らの主観的に幸福であったかと言うのは、彼らにしかわからないが、客観的に見たら、多くの人にとっては40代で子供部屋オジサンである僕よりは確実に幸福そうに見えるだろうと思う。だが、問題は主観的判断ではないか?
で、僕は思ったんだよね。
人の人生は幸福の王子様なんだと思う。
オスカー・ワイルドの童話である「幸福の王子様」はかんたんに言うと、街中に設置された金ピカな王子様の像が、街中にあふれる貧しさ故の不幸を憐れみ自分の身を飾る金箔やら目に入っている宝石やらを、越冬前のツバメを使って、届けさせる話である。最後は…まぁそこはここでは書くまい。
とにかく、僕らは他者を自分の主観でしか評価できない。王子様はきっと自分が不幸ではないから自分の価値観に照らし合わせて不幸だと思える人に自分の持ち得る資産を分け与えて救った気になっているが、不幸だと思われた人は本当に不幸だったのか?そして、たかだかツバメが運べる程度の金箔やらで彼等の不幸は救えるのか?
なんかつまらん事を言っている自覚はあるけど、これって結構僕らの抱える本質的な問題ではあると思うんだ。かつて日本が豊かだった頃、盛んに言われた海外援助の在り方にも通ずるが、魚を与えるのではなく魚の捕り方を教えるべきだみたいな理屈と一緒で、今日明日食べるものに困っている人に対して、釣り竿の作り方や魚の捕り方教えている暇は無い。まずは、命を長らえるのが大事であるとわかるし、アンパンマンが示してくれたようにそれが短期的、即時的にはひっくり返らない正義だと思う。例え幸せの王子様が救った貧しい子供が、成長して貧しさの構造的問題をテロによって解決しようと事件を起こしたとしても、王子様の成した正義はひっくり返ら無い。では、「足長おじさん」の正義はどうだろうか?結果的に彼が行ったのはグルーミングと言えるのではないだろうか?
善意であったことは間違い無いのだろうけど、結果的にそれこそ自分の利益になってしまう事はあるし、なんならそもそも、幸せ王子様にしても、それを自発的に行う段階で他者に対する善意には自分の利益が多少なりとも含まれるのだと思う。それは必ずしも金銭的、性的、世間的な評判など様々な形はとるが、本質的には単に「そうしたい」と言う欲求の実現に他ならない。
究極的と言うか、極論、暴論なんだけど、要するに客観と主観の間に僕らは生きていて、きっと幸福と言うのは基本は主観的で、時間を経て客観的、相対的になってくるのだと思う。
で、結論。
僕は、十分に愚かだし、知的に貧しい。
でも、今風に言えば、杞憂の民なので、休むに似たくだらないアレコレを考えてしまう。なら、もっと愚かで、貧しい方が誰かの判断を気にしないで幸福になれるのじゃないだろうか?
あ…でも、今、十分に愚かで幸せかも…
普通に考えたら、叶うはずの無い恋に心焦がしているのは最高に幸せなのかもね。