幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

デジタルデータの実在性

なんか動画をみてると流れる広告に、ラブレターをPDFで再提出を求めるものがある。

まず、ラブレターについて考えてみよう。なぜ手渡しするのに、文章を書いて文字にして伝えるのか?そこは思うに、伝えたいことが伝えたい相手にとっての価値が不明で、そのレスポンスに恐怖を抱いている場合。または、ライブで上手いこと伝えられないかもしれないと言う、恐怖心から、平静な時に書いた文章で伝えるという目的があるのではないかと思う。

で、結局のところ、おじさんとなった今では、そんなこともあったかなぁ?位になってしまったのだけど、要するにヤりたいって事を如何に美しい言葉で語るのが告白と言う行為の、言ってはならない本質なのだと思う。

でも、その本質はさておき、世間で流通している告白のイメージは告白はなんか甘酸っぱい思い出としての価値が、そういう事をする世代の葛藤なんかは無視して思い出としての価値のみがフィーチャされているように思う。

その観点から考えると、確かにラブレターは物理的に残るものだし、その結果がどうであれ、余程のことが無ければ、ある種のトロフィーにはなる。

そう考えると確かに紙に書かれた手書きの文字よりも、デジタルデータになるPDFの方が保存と言う点では信頼性が高いような気もする。

でも、その一方で、おじさんたる僕は思うのだ。PDFがやがてflashのような、いわゆるオワコン的な扱いになってしまう可能性を否定できるのか?

紙の保存性で言えば、なんなら死海文書みたいに、厳密には紙ではないのだろうけど、残るときは残る。誰かの愛の文なんて、当事者で無ければ殆どの場合、意味はないだろうから、何千年って単位で残す必要はないだろう。だとしたら、ラブレターをPDFで残す理由と言うのはあるのだろうか?

僕の今の答えは、状況によってはある。

手書きは僕らおじさん世代には、こだわりさえ無ければコストが低い。だが、以前書いたと思うけど、今や音声入力の精度は高く、想いを言語化するコストとしては、確かに手書きと同等程度だと感じる。

ただ、デジタルデータはそれを人間が認知するには、音声なり映像なりと、0と1の羅列を何かしらのルールに基づいて僕らの理解できる形に変換しなければならない。

それを僕らはデバイスに依存していて、その点を考えると、おそらく多くの場合、プリミティブなものほど復元性は高いのではないだろうか?

そう考えると、デジタルデータってのはさ、要するにデータを復元できる環境も込み込みで保存されていてこそ意味があり、アナログデータってのはデータが書き込まれた物質そのものに価値を付与する行動なのだと思う。

価値と意味。

それらを分けて捉えているのが良し悪し抜きに、合理的なのかどうかを考える時が来ているのかも知れない。

なんて事を、朝から考えてる僕に、ちょっとだけ引いてる、葉桜寄りの桜の季節でした。