幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

パンがなければケーキを食べればよい

マリー・アントワネットが言ったとされ、僕は確かに、中学生の頃に、そう教わった気がする。

マリー・アントワネットでは無く、どこぞの貴族婦人が言っただとか、ケーキでは無くブリオッシュだとか、本当らしいことはどうやら違っていたらしい。

信長、秀吉、家康のホトトギスの歌も同じだろう。

なんか、尤もらしいイメージを抽出して、それつぽいブラフが定着してしまう。

 

昨今の誹謗中傷問題も同じ構造ではないか?

 

青汁王子やら、木村花やら、著名人が誹謗中傷を理由に死を選んでしまい、その願いが叶ったり叶わなかったり…そんな願いは、叶わない方が良いのだけれど、自死を選んでしまった人も、そう言う暴言を吐いた人も、実は自死を願ったのではなく、何彼から逃れる方法の1つの選択肢として自死があり、暴言があって、その一つ一つは取るに足らないものだったのではないだろうか?

それを、現代のネット社会では効率的に集め、伝える事ができてしまい、そこから逃れる術も、自死という方法ばかりが大々的に、且つ普遍的に存在しているのを集約され、他の選択肢が選び難いのではないだろうか?

 

マリー・アントワネットや信長、秀吉、家康については本人達の預かり知らぬ時代にさも本人が言ったかのように言われ、やがてそれが正しいことのように伝えられる。そうなるには、歴史と言われる程に長い時間的な蓄積が必要であったけど、現代の効率的なツールはその歴史的な時間の蓄積を待たずして、虚構が真実味を帯びてしまう。

 

なんか、仮想通貨の構造と似ているような気がする。取引を正しいものと担保する計算を分散することによって確保している仮想通貨の仕組みも、不正な取引を正しいものとして計算する勢力が優れば正しさと間違いはひっくり返るのだけれども、それを数の暴力で担保している訳で、現代のように効率的にコントロールする技術が発展する時代では、長く正常に、意図した通りに働くものではないのかもしれない。

 

きっと、正しさとかって言う価値のスケール?には大した価値はないのだと思う。

 

盗人にも五分の理とかって諺があるように、僕らが求める理屈上の正しさなんて、自分の理解しやすいように歪められた五分の理屈と変わらない。

 

中学の時の社会の先生が嘘を教えた!なんて思わない。そして彼女がマリー・アントワネットに対して悪意を持っていたとも思わないし、確かに、そう言っていた方が後世の人から見た革命期の断裂は理解しやすいしね。

 

だから何?って言われると、返す言葉もないのだけれども、むしろ、やることなすこと意味のある行動を求められる人生こそ息苦しくて敵わないな。

 

ティーブンキングの小説だったかな?人間に対して、ウンコ製造機って言葉が出てきてさ、酷いなって思いながらも、なんか納得しちゃった。まぁ、僕の人生にとって地球上の人類の99%はウンコ製造機でしかないんだよね、実際のとこさ。

 

いや、むしろ、ウンコ製造機としてでも存在を認知してるだけ高尚ですらある。

 

そして、そんな僕だってさ、誰かにとってはウンコ製造機だし、数少ない誰かにとってはかけがいのない何かなんだよね。

だから、きっとウンコ製造機と聖人は同じ存在だ。三位一体ってよく考えた理屈だよね。トリニティ。なんかかっこよく聞こえるけど、要するにウンコ製造機と聖人の矛盾を解決する超理論でしかないんだよね。

 

久々にさ、時計を忘れて外に出た日。

僕は客観という呪縛からほんの少し逃れて、ウンコ製造機としての自覚を持ちつつ、聖人に憧れる人生を生きて行こうと思うのだよ。