「原因と理由を一緒くたにするな」と言うのは僕の座右の銘なのだけれども、理由が必要なものは大抵、どこかに無理がある。
下世話な例で申し訳ないが、目の前に僕好みの美女がいて、誘われたらどうするか?
もちろん断る。
いや、だって絶対なんかあるでしょ?
これが理由だよね。
多分、理由なしにできる事ってのが自然で、ストレスの少ないことで、人間本来の、と言うか、その人のあるべき姿なのだろう。
目の前の美女から誘われて、断る理由は僕には無い。立場的にはね。でも、断るって決断に至るのは、総合的に何かしらの理由が必要なんだ。
もっとなんかあれば良いんだけど、これはこれで幸せさ。
で、思う訳。
ゲームとかで、ボタンを押したり、画面をタップするには理由が必要なんだなって。だからカワイイキャラや面白いストーリーが必要なんだろう。
ボタンを押すこと自体に意味とか価値は無い。でも、その行動を取る相応の理由があれば、ボタンを積極的に押す。
つまり、理由さえあれば不合理と言われようがなんだろうが、やるときはやっちゃうんだろう。
極端なんだけどさ、人が生きるってのはつまりはこーゆーことなんじゃないかな?
僕らは生まれた結果、生きている。
これは、生まれたって原因から今を、生きているって言う、状態を説明している。
要は、原因も理由も同じものなんだよね、本当は。
僕が言いたいのさ、理由は先を、原因は過去を軸に今を決める言葉なんじゃないかな?
これから僕はサウナへ行く。その理由は、サウナの気持ちよさを求めてだ。
原因は、サウナ程度の心地よさが、今の僕の、努力できる限界だから、かな?