幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

インターネットは世界を広げたか?

珍しく素面で書いている。とは言っても、チョビチョビ飲みつつなんだけど。

実はこの4連休が、僕にとっては夏休みの関係で6連休で、暇を持て余したり雨だったりで、いろいろな映像作品を見た。

ここ10年くらい2時間の映画を見るのが辛い。いや、作品によっては一気に見れるんだけど、大体の作品で途中で集中力が切れてしまう。だから、なのかはわからないのだけど、30代頃から海外ドラマにハマり、今ではその1時間も辛くなって、アニメとかを見る機会が増えた。まぁアニメに関しては塾の先生をやっていた時に子供たちに教えられて見るようになったと言う方が強いのだけど。

 

そして、今回も結構な数のアニメを見た。

んで、表題の件を思ったのだった。

いい大人になって・・・と思うところも無くは無いのだけれど、アニメが子供のものであった時代はもう遥か昔で、今じゃ多くのアニメが深夜時間帯に放送されている。それでもやっぱり描かれているテーマというか、描かれている登場人物の世代は学生が多くて、おっさんが主人公のアニメというものには、僕はお目にかかったことがない。

アニメは子供のものでは無いのかもしれないけど、それでも若い人のものなのだろうか?今や40代の自覚が、嫌でも意識されている僕ではあるけれど、若い主人公たちの恋模様や人生の葛藤を見て何を感じているかと言うと、恐らくは、若い人ほどには真剣ではないのだろうけど、同じく製作者側が意図したものを感じられているのだと思うのだ。

 

初恋の高校生男子の気持ちを、41歳の僕が共感できるはずもないし、実際に高校生男子だった頃に見たって、そんなに綺麗に初恋できてはいなかったから、100%の共感なんて無理だったろうなと思う。でも、それだときっと、今リアルに高校生男子である人も同じで、41歳のおじさんが他人の初恋の断片、それも神の視点描かれる初恋の物語に感じる感想に大差はないんではないだろうか?

 

それでも、決定的な違いがあるとすれば、恋を含めた「時代」に対する共感と言う点については、圧倒的に現役高校生とおっさんにとの間には、違いが存在する。

 

僕が高校生の頃には、連絡手段はphsだった。乗り換え案内もできず、写真も撮影できない、モノクロ液晶の電話機だった。なので、当然、既読無視しただけで壊れる人間関係も無ければ、権威なき「いいね」の数に一喜一憂するような世の中でも、もちろんなかった。事件は現場で起きていて、掌に乗っかる4〜6インチくらいの画面を通して見る怒涛のように溢れて来る世界ではなかった。

 

昔、学生の頃の話だけど、世界史だか日本史の授業を受けていて漠然と思ったことがある。中学生の時に起きたソ連崩壊は、中学校の時にはニュースで、高校生の時には既に歴史になっていた。だから、きっと時代を経れば経るほどに学ばなくてはならない歴史は増えてゆく。でも、学校の授業の時間は時代とともに増やせるかと言えば、そうではない。そうなると当然、僕らが学ぶべきだった歴史の出来事のうち、何かが教科書から消えてゆく。そう、増えてゆく情報に対して、僕らが受け取る、受け取れる情報と言うのはそんなには増えないんだ。

僕らは時間をかけて読んだ本や映画の内容さえ忘れる。文学史で読んだこともない作者の名前と著作のタイトルを、ただ単にテストで点数を取るために覚え、1192年だと思っていたら、いつの間にか変わる年号を覚え、忘れる。きっとそれは、どちらも忘れてしまっていると言う段階で意味はないんだ。いや、全く意味がないとは言わないけど、サービスが終了してしまったオンラインゲームのデータと同じようなものなんだろう。非常に賞味期限の短い情報なのだと思う。

 

初恋が厄介なのは、それが初めて出会った恋であるが故に、比較対象がなくて、全てだと思い込みやすいことだ。だから、それまでに感じた事の無いような高揚感や幸福感、そしてその逆の強烈なネガティブな感情を産み出して、印象深くもなる。でも、だからこそ初恋というのは、非常に賞味期限が短くノイズに弱い情報なのだ。

 

僕らが初恋をしていた1990年代には、それでも人々は建前を言っていて、赤裸々な本性や剥き出しの感情は余程のことがなければ、浮かんでは来なかった。今はどうだろう?相も変わらず、建前は言うが、本音も言っている。匿名で。しかも建前と違って、無数の匿名の本音は、建前よりも数が多く、それが真実のように振舞うから性質が悪い。

恋心が初心であればある程に、建前が強く、本音の部分が本人にさえ見えづらくなる。最終的にはセックスしたいってだけの欲求なんだけどね。じゃセックスできりゃ誰でもいいのかって話になった時にする言い訳が恋の正体なんだけど、僕らが初恋していたころには、そんなことを教えてくれる大人はいなかったし、目を覆いたくなるような本当のことを匿名で公開できる場所も無かった。今じゃ意外と手っ取り早くこの真理に辿り着いてしまう。Googleさんが教えてくれるし、目が覚めた奴らが愚痴まじりに、それがまるで永遠普遍の真実であるかのように呟いてくれているから。

恋が脳の誤作動であろうが、性欲の詩的表現であろうが、運命によって導かれた出会いであろうが、何だって僕は構わない。やることは一緒だ。41歳となった僕にとっては、それが唯一無二のものでないことや、唯一無二となる可能性があるものだと経験的に「わかって」おり、知識として「期待できる」ものだからだ。失敗したら、「次こそは」って、頑張ればいいじゃん。でも、きっと若い人たちにはそう思うことが難しいのかもしれない。それは、今も昔も同じで、その部分で僕はアニメの主人公たちの恋模様に自分の思い出を重ねあわせて共感出来る箇所を見出してるのだと思うのだ。ただ、決定的に違うのが世界の広さなのだと思う。

 

で、ようやく表題の事なんだよ。

インターネットは、確かに世界中の知へのアクセスを簡単にして、世界を広げたとも言える。

また昔話となってたいへん恐縮ではあるのだけれど、昔Googleが普及し始めた頃に会社の先輩とした会話で、今でも印象に残っているのが、「Googleってストーカーみたいだね、個人で作った無料のホームページの記事でさえ拾って来る」と言う感想だ。

当時はまだ、今ほどにアルゴリズムもこなれていなくて、ページ内に検索ワードが含まれていればどんなページだって検索結果に表示されていた。その中から自分の欲しい情報を見つけるには、検索する際のキーワードに工夫が必要だった。これは、恐らくインターネットの前身である大学間の論文参照システムの名残だったんだろうけど、要は検索する人は欲しい「答え」があって、その証拠となるような文章を探していた。でも、今はGoogleに「答え」を求めているんだ。しかし、それも大した問題じゃない。Googleがライブラリから情報の格納場所を教えてくれる司書から、質問に答えるのではなくて、「教えて」くれる教師に変わってしまった事を理解して使う分には、全くもって問題にはならないのだ。

 

これは結局のところ、対人でもそうなのだけど、「聞き方」によっていろんな回答が出て来るから、質問している相手がどんなモノかってのを理解して質問している分には、問題ないんだ。ただ、これを意識しなくなってしまった時に、世界は途端に狭くなる。

 

高田純次に同じ内容の質問を別々の日にしても、きっと2.3日もすると別の答えが返って来るけど、Googleさんに同じ内容で別々の日に質問しても、2、3日じゃ答えが変わらない。高田純次に、同じ内容でも違う言葉で質問したら、同じ答えが返って来る可能性があるけど、Googleさんに同じ内容でも違う言葉で質問したら、ほぼ間違いなく別の答えが返って来る。

 

「あなたは人を殺しましたね?」と「あなたは人を殺してませんよね?」みたいな話をしたいんじゃないんだ。ネタバレ読書感想文で、推理小説の犯人を知りたいのではなくて、トリックやその背景を知りたいみたいなお話をしたいんだ。

例えて言えば、高田純次に「この事件の犯人は?」と聞いたらきっとエンタテイナーである彼は、それが正しい可能性は低いけれども、犯人の名前だけでなく、そのトリックや背景などについても説明してくれるだろうけど、Googleさんはきっと正しい犯人名しか教えてくれない。

まぁ最近はGoogleさんも結構気を使ってくれるけど、それでもGoogleさんの基準はきっと、その答えが面白いかどうかではなくて、正しい事を大事にしている。そしてGoogleさんの考える正しさの基準の中にはきっと量的なものもあるだろう。だから、実は正しくないかもしれない現在の天動説みたいな結果を表示させている可能性もあるのだけど、僕らは最近このGoogleさんの言うことは無条件に正しいと思い込んでいる節がある。

 

そうなると、世界はGoogleさんの考えた世界になってしまうんだ。

Googleさんの考える世界が狭いと言うつもりはないのだけど、Googleさんへの質問方法によっては、その結果として同じような内容が書かれた大量のページが表示され、反論や異説なんかは、それを求めて調べなければならない。それを調べれば良いのだけれど、調べる為にはその存在を知っていなければ調べることもできないのだから、実はGoogleさん自体はきっと昔と同じ、司書さんのママなんだと思う。しかし、それを我々が教師だと勘違いして、自分自身でその質問方法を工夫しなければ、その分だけGoogleさんの示してくれる世界は小さくなり、きっとその人の世界も狭いものになるだろう。

 

情報流通量が多くなったとしても、人に与えられた時間は有限であり、取得可能な情報量もまた有限なのだと思う。そうなると、当然、数ある情報の中から取捨選択をし、恣意的に情報を選別する必要があるのだが、このことが入手可能な情報に偏りを生じせしめて知覚世界を歪ませる。この歪みは、得られる情報総量が一定でありそれが物理的な表面積に相当するものであるならば、その人の知覚世界に、いくつもの高い山や深い海溝を生み、結果として球体のイメージである知覚世界であれば、人それぞれに知覚世界の体積が異なって来ることになる。そして、恐らく多くの場合インターネット前とインターネット後を比較した場合には、地球全体で知覚世界の体積は小さくなっているのではないかと思うのである。

 

やば、久々に長く書いた。

そして、最終的にヘベレケになってたw