父はあれから、変わりなく、体調は良くはないのだろうけど、生きている。
人の生き死には、いつだって突然だし、むしろ、残された時間がどれだけのものになるかはわからないけれど、それを意識出来た事は幸運なのかも知れない。
三浦なんたらさんの訃報。それに接して、そう思った。
僕はちゃんとお別れの時間を与えてもらえたんだ。41年間の感謝を言葉だけになるだろうが、伝えるチャンスをもらえた。
でも、僕はきっとうまく使えない。
だって、死んで欲しくは無いから。
お別れの言葉は、それを諦めてしまうようだから、放棄してしまうようだから、言えない。
やがては、必ず訪れる事なのに、ね。
でも、わかってはいるのさ、いつだって、それは突然なんだ。だから、僕は言葉にはできず、感謝の想いをこれまで以上に持って、行動はしているんだが…
ここに、多分、人の矛盾と言うか、面倒くささがあるように思うよ。
自分の願いが叶わぬ事を理解できても、願わずにはいられない。それは、きっと人間の謙虚さでもあり、同時に傲慢なわがままさがあるように思う。
やがては、人は死に、そのタイミングはきっと、多くの場合、突然だ。もちろん、父のように、死が数ヶ月単位で約束されてしまっても、何年も生きる場合もあり、逆に三浦なんたらさんのように、突然と言うこともある。
僕はね、今までに、人を何度となく殴った事もあれば、もしかしたら死んでしまうかも?と思いつつ、人を殴った事もある。
幸いにも、人を、結果として、直接的に殺してしまった事は無いと、そう、思っているが、間接的に、救えなかったと言う感じで、人の死には何度も遭遇して来ている。
そんな経験をしていると、今、この瞬間の愛おしさが半端無い。
一寸先は闇。なんて言葉があるけれども、実際は一寸も無い。
北の将軍様が、トチ狂って核ミサイルを東京に撃ち込んだら日本の国防システムはそれを防ぐ事はできないし、きっと僕らは為す術も無く、大気に溶ける。
その時僕らに与えられている時間は数分だろう。
見通しの悪い交差点を渡るとき、僕らはきっと同じリスクを背負ってる。なのに僕らは、この世界の奇跡を感じない。
今、僕らがここに生きていることさえ、奇跡なのにね。
だから、感謝すべきなんだとは思うんだよ、今、生きている事にね。でも、感謝出来ないのが人間で、無こそが救いだって言う中二病的な結論も、わからなくは無いんだよ。
でもさ、誰かの不幸を知覚しなけりゃわからない幸福なんて求めてはいけないのだよ。
人間はあまりにも、観念的に成りすぎた。社会のルールと物理的なルールが一致しないのは当たり前なのに、それを消化できずにいるんだ。
あぁこう言う事なんだ。
僕らは人間として、生き物として、また共有される何かしらの価値観の概念として、矛盾を抱えて生きている。
だからきっと答えは1つじゃなくて、いくつもあって、三浦なんたらさんの死も、その1つなんだろう?
彼の死よりも、父に迫りくる死を僕が、恐れるのも納得だよ。
あぁ、幸せを知覚出来るその瞬間が、相対的な世界でしか成り立たないのが恨めしい。