転職活動をしていると、それなりに業界構造と言うものを考えることがあってね、そんときいつも思うの。多重化こそが悪ではないかと。
IT業界で働いていたときに、某IT業界の現場で、あのスカートの中を「見える化」しちゃった社長さんのコメントが今でも頭に残っている。あ、凡そだけどね。
「会社が大きいと言うだけで、いざと言うときの保障が期待できるというだけで仕事をもらっている。現場を協力会社に任せてしまうことで、会社としての技術力が低くなる。」
で、その後社員に対しての激があるんだけどね。
でも、これってある意味業界内での対流が生まれる原理なんだと思うの。
ただ、それはでも単一の価値に基づいた場合ね。そこに金額やら何やらって絡んでくると社長のおっしゃるとおり、保障やら保険やらそんな総合的な力が関わってくるので、その限りではない。
多重構造というのは、下請けにとっては機会損失の防止で元受にとっては人件費の低減から生まれた構造なのだろうけど、この構造は要するにお金の価値観でしか「よしあし」は判断されないのだろうと思う。
でも結局それが社長のおっしゃるとおり、技術の流出になり、対流を生むと言うならば必要悪と考えることができるのだけど、でもどっか納得がいかないのは僕がそのいわゆる上流にいなからだろうか?
たぶん、それもあるんだろうけど、それ以上に僕の意識としては「つまらない」のだ。何度か上流にいたこともあるのだけど、そこでの仕事はつまらなかった。
多重構造を生む理由のひとつに人集めの難しさがあるのだと思うのだけど、クラウドワークのような新しい出会いがその解決に繋がれば、多重構造は解決されると思う。でもね、そこにはこれまでの社会にあったような甘えがなくなってしまう側面もあって、手放しに賞賛する気にはなれないのだけれども・・・。
僕ね、思うの。
生きる目的はたぶん幸せを感じること、幸せになることだと思うのです。
ただ幸せって言うのは見えなくて、目指すって言葉が示すとおり「目」が示すとおり、「見える」ものなのだと言う勘違いをしてしまうものなのだ。
いろんなものが「見える化」されている世の中で見える何かを目指してしまうことで、何かを見失うことのあるこの世の中で、構造的な問題とか、いろんな「何か」を悪者にすることで、あるいはお金って言う定量化されたスケールで量ることで自分自身の位置を確認できると思い込むことで、勘違いしてしまうものなのだと思う。
創作物ではあるのだけれど、僕の人生に強い影響を与えてくれたセリフがある。
長渕さんの出ていたドラマだったと思うのだけど、うろ覚えで、調べてみてもみつからないのだけれど、
「幸せかい?幸せって感じるものだろうよ?」
みたいなセリフがある。
当時、中学生?小学生?だった僕がここまで考えて覚えているとは思えないのだけど、でも、あるときから僕の、30代後半の僕がこのセリフから得られる教訓、箴言は
「幸せってのは目指すものでも、作るものでも、手に入れるものでもなく、感じることなんだろうよ」
ってところなのだろう。
そうなるとさ、構造化されたものってのはさ、感じるというあいまいでそれでいて何よりも現実的なものではなくて、現実的に感じてしまった物事から人が、人が人たる所以たる、そうであると信じられている理性によって作られたある種のフィクションなんだと思うのです。
なんだろうね。
あと少しで、本当にあと少しで自分で、自分の考えている言葉を表すことができそうなのに、まだ到達できていないこのもどかしさ。
小難しい言葉を並び立てて、何かしら意味のあるような言葉を並べてみてもさ、きっと僕が幸せを感じることとはまったく関係のないことなんだ。ある意味でそれはきっと僕が疑いつつも、それに準じている世の中の価値観に基づいた判断であり、自分自身を納得させるために、自分以外の、自分の外にあるルールに基づいて表現している意味の無い音でしかないのだろうけど、その音を僕が聞くことで、それを僕が信じられる、僕にとって意味のある言葉と言うか、意識になるのだと思う。
もう少し、もう少しがんばってみようと思うのです。
このもやもやした感じ、これが僕だけが抱えてしまっているようなものであれば、ご期待いただくなんてとても言えないのだけど、僕は僕のためにこれを読んでくれる人にこう言う。
多重化された僕が多重化された世界を、多重に解釈した、多重化された言葉で語ることをご期待ください。
なんてねw