えっと、フィクションです。
それは9月の夕暮れ時。
小田急線の下り電車での出来事。
そろそろ、帰宅ラッシュの時間にさしかかろうと言う時間。
電車内の座席は全て埋まり、どのドア付近にも何人かが寄りかかるように乗っていた。
僕は打ち合わせからの戻りで、職場へ帰ってからもう一仕事あって、少し急いでいた。
新百合ヶ丘だったと思う。
乗降客をこなし、ドアが閉まる。
プシュー。
空気圧で動作する音が何度も繰り返される。
ドアの故障だろうか?
車内が少しざわつき始める。
そのとき、パシーンと小気味良いほどの平手打ちと思しき音が響いた。
「何しているの?」
威厳と凛とした気迫を感じる声だった。
プシューっと何度目かの音を立てて、電車のドアは閉まり、動き始めた。
声の主は、上品な格好をしたお年寄りだった。
しゃがみこんで向き合っているのは、近くの私立小学校の、おそらく低学年の男の子だった。
「さぁ言ってごらんなさい。何をしていたの?」
厳しく、威厳に満ちた声で老女は言う。
小学生は、俯いたまま殴られた頬を自分でさすっていた。
「あなた、お名前は?」
と老女。
やっと答える小学生。
「○○さん。いいお名前ね。さぁあなたは私がなぜ叩いたかわかる?」
先ほどよりは、声に柔らかさが出ているように感じた。
うなずく、小学生。
「では、おっしゃいなさい」
そう促され、小学生は自分が電車のドアに足を挟んでドアを開閉させていたことをポツリポツリと言う。
「そうね、それは良いことかしら?」
首を振る小学生。
「では、なぜやったの?」
電車の騒音で、小学生の答えはあまり聞こえなかったが、老女の次の言葉からだいたい想像できた。
「そう。どっちだった?自動ドアと同じ?いいえ、車掌さんがちゃんと確認して閉めているのよ」
小学生は少し目を輝かせて、老女の話を聞いているようだった。
「私があなたを叩いたのはなぜだかわかる?」
と老女はさらに問う。
「はい」としっかりと答える小学生。
「僕が悪いことをしたからです。」
聡い子だ。
「そうね、○○さん。あなたは悪いことをしました。でも、それだけじゃないのよ。」
と先ほどまでの威厳は消え、ただ優しい声だった。
「なぜ、悪いことなのかわかるかしら?」
小学生の目をじっと見つめて問いかける。
「もし、あなたの足が挟まったまま出発して、ホームにいる人に当たってしまったら、あなただけじゃなくて、ホームの人も怪我をするし、あなたの足も大変なことになっていたでしょ?」
小学生は、今更ながら事の重大さに気づいたのか、涙目になっていた。
「そうね、怖いことでしょ?それだけじゃないのよ、御覧なさい、こんなにたくさんの人がこの電車には乗っているの。中には急いでいる人もいるかもしれない。お腹が痛くて病院へ向かっている人もいたかも知れないのよ?」
もうほとんど泣きそうな小学生。
「そうね、怖いことね。もうおわかりのようね?では」
と一息ついてからこう続けた
「ごめんなさいね、叩いたりして、痛かったでしょう?」
と小学生の頭をなでつつ、囁くように言う。
「さぁ、悪いことをしたときには、どうするのかしら?」
すると、小学生は大きな声で
「悪いことしてしまいました、ごめんなさい」
と車内の乗客に向かって頭を下げた。
どこからともなく、車内には拍手が生まれていた。
たった一駅。
ほんの5分ほどの出来事。
人はきっと悪者を倒さなくてもヒーローになれる。