ふと思ったこと。
日本語って色についての名詞がたくさんある。
元IT土方としては、RGBやらCMYKやらの色についての知識があるので、英語と日本語の色についての表現方法は実に興味深い。
たとえば、藍色は英語ではIndigoBlue。
英語だとブルーの一種。
日本語は青と藍の間に一線が引かれている。
虹の色も日本は7色だけど、世界ではそれぞれ虹の色の数が違う。
アメリカでは6色らしいし、ユーロ圏では5色、アフリカでは4色らしい。
これは知覚できる色の数だと思うのだけど、見ている対象や発生している自然現象としては同じものなのに、その捕らえ方が違うと言うのは、言語世界の違いなのだと思う。要するに虹ってのはプリズムなわけで、そのグラデーションの境目をどこに持ってくるかってところで、カウントは変わってくる。逆に言うと色の概念の違いなのだと思う。
色の概念なんていうのは、実際のところ、虹が何色であったとしても、人が生きてゆくのには別段影響ないわけで、色を人が操ろうとしたときから、おそらく発生していると考えるのであれば、日本語の色に関するバリエーションの多さと言うのは、もしかすると、生命活動維持に関する活動時間以外の余暇の時間の多寡によって変わってくるのではないだろうか?
と考えると、日本の色に関する固有名詞の多さと言うのは、そのまま日本古来の生活様式の豊かさをあらわすものであるか、あるいは、外来の概念導入の抵抗力の無さをあらわしているように思える。
それは、米の栄養価の高さ故に発生したものなのだろうか?
なんてことを太平洋見ながら酔い覚ましして思った。
海は残念ながら青くはないのだけれどもね。