朝からお酒を飲んでいる。
アル中だと言われたら、否定することはできないのだけど、一応コントロールはできていると思うので、たぶん大丈夫です。
ってことを書けるうちは何かしらのブレーキが利いているのかな?
ま、それはさておき、雑感です。
ミニマリスト論争を、と言っても特定のある一部の方だけなのかも知れませんが、追ってみて気づいたこと。村社会ってものなのかな?
「多数決こそ正義」みたいな間違った民主主義。いや間違いではないのか。でも、理想としている民主主義とは違うと思う。範囲を特定して、その中で自分の信じる正義を互いに誉めそやしていれば、それはきっと心地よいものだと思う。問題はね、そういう範囲が複数存在したときに「水戦争」みたいな村同士の争いが発生することなんだと思う。いや、それさえきっと問題ではないのかもしれない。そういう経緯を経てソフィスケイトされて、ブラッシュアップされてゆくものならば。ただ、ネットと言うか21世紀の特徴なのだろうか?問題点は「殲滅」を目指してしまうところにあるのだろう。
生物は多様であるべきだと言うことを人は認識し始めていたはずなのにね。
高校時代に作った美術の課題で、僕はNationalGeographicを真似て”Life is possibility
"というタイトルの本を作った。ナショジオの写真を水彩絵の具で書いて、どこぞで借りて来た詩を配したものだった。今でもその想いはあって、同じゴールを目指して最適化してゆくことに僕は疑問を持っている。(フリー素材の写真使って同じコンセプトでブログ作ってみようかな?)
さてさて、雑感に戻ろう。これから書くのは、はてなさん風に言えば「主語が大きい」話なのかも知れませんが、「ムラ社会」と言うものについて。
こちらのエントリを読んで思ったこと。
まず、すごくしっくり来た。
自分語り入ってしまうのですが、僕が中学生のころに感じたのはこれだった。
僕が生まれ育ったのは、埼玉県の新興住宅地。アパートやマンションなんてのがない田舎だった。住んでいるご家庭の多くは、大手建設業の社員さんご一家。小学校までは僕の当たり前は、「普通の家」=「庭付き一戸建て」。「普通の小学生」=「家に帰るとお母さんがおやつを用意して待ってくれている」だった。
中学生になって、塾に通い始めて、さぼって、ゲーセンとかで知り合った他の地域の子供たち。彼らは僕の知っている世界のとは違う世界に住んでいた。
僕は初めて「普通」が揺らぐ経験をした。
ブルーハーツの歌詞のように「いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い」ってのを全部って言ったら言い過ぎだけど、経験して、面白くはなかった。
大人たちは言っていた「人にうそを言うな」と、でも本当は「自分より力のある人にうそは言うな」だった。「人に優しくしなさい」って聞いていた「自分に役立つ人には優しくしなさい」だった。「困っている人を助けなさい」って教わっていたけど、「助けられる困っている人を助けなさい、それ以外は、見なかったことにしなさい」だった。
で、それってさ、実はどの世界にも共通しちゃってるのよね。
平気で人殺せちゃうような奴は恐れられるけど、そのコミュニティでも仲間なんて得られない。人は自分が理解できるものにしか共感できない。
で、まぁ要するに、残念ながら地方の意図的に作られた街なんかは、そこに住める人のバックグラウンドが似通ったものになって、結局同じような価値観を持った人たちが集まるんだと思う。学校も一緒。高校以降は”選別”されてしまうから、似通った学力の子供たちが集まる。だから僕らは下手すると他人の人生をそれこそ”フィクション”のように感じて生きてゆける。
でも、生々しい事実なんだよね。だから僕はそれ以来、自分の居場所がわからなくなっている。
自分自身は大学まで出してもらったし、カナダに留学までさせてもらった。恵まれた環境に育った。経験や能力って点ではもしかしたら本当に恵まれているのかもしれない。でも、僕は中学生のころに入った世界で僕以上の経験や能力を持っている子供たちが自分の育った環境の制限で自分を信じられなくなっているのをたくさん見てきた。僕以上に頭のいい子達が、自分を信じられなくて腐ってゆくのを僕は何もできずに見ていた。
そのときのお話なのだけどね、僕は一人の「愚かな大人」に出会った。一言で言ってしまえば、たぶんそういった世界のOBなのだと思うけど、その人自身たいした力もないのにガキどもにいろいろとしてくれていた。「関わらなきゃいいのに」と僕は思っていた。見た目はさ、かっこよくないの。どこにでもいる普通のおっさんでさ、中学生に凄まれて涙ためてしまうようなそんな人だった。今なら僕にはその涙の意味がわかるような気がする。けど、その当時は違和感だけだった。なんでその人がそこまで子供たちにしてあげるのかがわからなかった。ただ、その人から僕が言われたことは今でも覚えている。
「君はこの世界の人間じゃない。君自身が幸せになるためには、この世界のことは忘れなさい。でも、きっと無理だね・・・苦しい人生になると思うけど、君はきっと美しく生きてゆけるよ」
今の自分の人生が美しいとは思えない。でも、そうありたいと願っている。
裕福になるよりも、物質的に豊かになるよりも、僕は美しくありたいと願っている。
見た目は、まぁ残念なんだけど、生き方は美しくありたい。陽明学者のような潔さを美しいと感じてしまう僕は、きっと今の世界での美しいと言う基準から外れてしまうのだろうから、結果として中途半端な僕に今はなっている。
今の僕を今の世間の価値観から言えば、ダメ人間と言うのが正しい評価だと思う。
でもね、どっかで自分の価値観を信じられているから僕は生きてゆける。
他人からどう思われても、世間からどう思われようとも、僕は僕の幸せを追い求めたいと言うロマンティックな想いがあるのです。とは言え、今のところ自分のわがままと世間の価値観の間に折り合い付く”落としどころ”を上手いこと見つけて生きているんだけどね。
いっそどちらかに染まりきってしまえれば楽なんだろうね。
あ、せっかく言及させてもらったのに、エントリにあまり触れていない?w
要するに、このエントリから感じたのは、物理的な距離がやっぱり人の価値世界においても影響をもたらすと言うこと。つい先ごろあった、どっかの山村での大量殺人事件。捕まった犯人の精神鑑定が行われているけど、本当かどうかは別としてその山村での「ムラの価値観」がネット上に載っていた。
「大手企業の早期退職金をムラのために寄付すべき」
「農業繁忙期には無償で手伝うべき」
etc
僕の感覚ではありえない。
でも、同時に同じ都市生活者であっても価値観の違いがある。
今僕は都市生活者と言えるかわからないのだけど、生まれ育った環境から離れていろんな土地に住んでみた経験から言えること。土地のもたらす価値観と言うものがある。都市ってのはさ、人間が究極的に合理的に考えて作った生活に便利な場所なんだと思う。便利さと幸福度ってのがある程度までは比例するんだけど、閾値を超えてしまうと反比例する。だから人は都市で歯車になってしまうのかな?
えへw
だいぶ酔ってきてしまったw
少し、海行ってきますw