いや、前も書いたのだけどね。
実は、今、ニコニコ動画でプレイ動画を見ていて、また書きたくなってしまいました。
このゲーム発売が98年なので、んと、17年前になるのかな?
当時僕は18歳かな?ちょうど大学生になりたての時だった。
そろそろゲームするって言う習慣も無くなってきて、プレステも埃かぶっていたんだけど、このゲームでまた電源が入った記憶がある。
このシリーズに限らずだけど、ゼノシリーズはテーマが哲学的。
それもおそらくニーチェとショーペンハウアーあたり、あと宗教はニーチェがらみかもしれないけどゾロアスターとかも絡んでる感じがします。
そういう興味があったから僕は惹かれたのだろうけど、ゲームとしてもなかなか評判が良いみたいで、17年もたった今でもゲーム実況で新作があがるほど。しかも、それを実況しているのは下手するとゲームと同じ歳くらいの子。世代を超えて支持されているみたいです。
で、思うのですよ。
哲学書がなんであんなに読みにくいのか?
もちろんある程度原因はわかっているんだけどね、正確性というか学問としての体裁を整えるためにはあ~ゆ~表現にならざるを得ないと思うの。でもさ、ゼノギアスというゲームみたいにエンタテイメント性のある哲学があってもいいと思うの。本気で哲学をやっている人から言わせたらたぶんあり得ないことだと思うけど、でも、僕が目指したのはこれだったんだ。
映画も本当にたくさん見たし、本もたくさん読んだ。難しい本も読めなくはない。でもね、難しいほどにやっぱり面白さというのはわかりにくい。ドストエフスキーが数年前に流行ったときも思ったの。なんで今頃?って難しいイメージが先行しちゃって食わず嫌いだったところもあったんだろうけど、わかりやすくアニメでも何でもいいから表現してみるといいんだと思う。
そうなんです。
僕は、何かしら哲学をわかりやすく伝えたいと思っていたんだ。
で、まずは自分でその哲学を理解することから始めなくてはって思った。
で哲学を勉強したら飽きたw
飽きちゃいないんだけど、なんか哲学書から学べることを物語の形にするってのはすごく難しいことなんだよね。その点ではニーチェの試みは凄いと思う。見事に失敗しているけどね。
ゼノギアスも他の物語もそうだけど、結局哲学書が物語りになり得ないのは、物語には複数の哲学が必要だからなんだろうね。ひとつの哲学だけで物語を作ろうとすると、ツァラトゥストラになるんだろう。一応、ツァラトゥストラも神との対峙があるんだけど、最初っから「死んだ」って言っちゃってるしね。
物語の面白さというのは対立する概念の衝突と調和、あるいはそのプロセスなんだろう。だから僕がまず手にいれなければいけないのが自分の信じ切れる哲学と、その対立する哲学なんだろう。
そっから肉付けして物語を紡ぎださなければ僕が作りたいものは作れないのかな?