幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

歪んだ世界

とは書いてみたものの、歪んでいない世界であった試しがあるのだろうか?

 

残念ながら、世界は歪んでいる。多くの人にとって、こうあるべきだという世界と現実の世界には差異や乖離、嘘や秘密、誤解があって、それ故に世界は歪んでいる。

 

個人の思い描く世界と、現実の世界、どちらが正しいとか言い始めるとキリは無くて、ただ事実として合致していないから、そこに隙間が生まれて、合わせようとすれば、歪みが生まれる。

 

歪みは、弱いところに、圧力が一番かかるところに出る。僕のベルトは、僕の中にある僕がこうあるべきだって思っているウエストサイズと現実のウエストサイズとの差を無理矢理解消しているおかげで、たいてい縦長の穴になる。これが歪みなのだと思う。

 

僕は何も世界という大きな題材で僕のメタボなウエストを語りたいわけじゃない。歪みが生まれるプロセスを考えたいのだ。

 

要するに、現実にあっていない思いを無理に解消しようとすると歪みが生じる。言われも無き叱責にムカつきながらも上司にヘコヘコするとか、敬意もなく使う敬語だとか、楽しくないのに見せる笑顔だとか。そして、そんな努力は、確実に僕らの何処かはわからないけど、一番弱いところに現れてくる。

 

ことこれが個人の事であれば僕のベルト穴だったり、各種ストレス性疾患やちょっとした体調不良なんてのもきっとこれが原因なのだと思う。

こういうのが必ずしも悪ではないとも、僕は思うのだ。人によってはそれを成長の機会と呼ぶこともあるだろうし、事実成長するきっかけであることもある。歪みを耐え、乗り越えることは確かに成長であることもあるのだけれども、でも大抵の場合は感覚の摩耗だったりする。

 

 じゃ、そもそも成長って何よ?って話が出てくる。成長が大きくなることであるならば、僕は40間近になったと言うのに横に成長し続けている。しかし、多くの人は僕の成長を成長とは言ってくれず、貧しくみすぼらしくなることを強く勧めて来るのだ。

 

が、僕がどんだけ中年太りしようとも、それは良い。イヤ、良くはないけど、まぁ良い。僕が扱いたいのはさ、結局僕らは何を目指してるんだろうね?って話。

 

偉人は曰く、幸福は人それぞれであると。でもその割に僕は自分の足の短さを嘆き、絶望さえ舐めるが、僕の足の長さは、股下86cm。僕の身長が!50cmなら相対的にかなり脚長だ。でもね、きっと僕の身長がそんだけだったら、僕は言われるのだろう。ちっさいオッサンと。

 

成長が何か完成形を目指して行われる努力であるならば、今の僕が成長する最終目標は何なんだろ?僕はどこまで成長したら完成するのかな?

 

どうにか、0.1tにはならず、僕は物理的な自分の成長をコントロールしている。が、結局その努力はきっと僕にとってはストレスなのだろう。維持はできているものの、満足感なんてこれっぽっちも感じられない。

 

ここにあるのは2つの価値観の間にあるジレンマを母としている

美しく有りたいという価値観、そして残念なことに、それは、僕の究極目標では無く他の価値観と矛盾する。

 

ベルトの話に戻ろう。イヤ、そこまで戻らなくてもいいか。とにかく、僕も世界も、きっと雑多な価値観を持っていて、都合よく自分を納得させているんだろうね。だって、僕の好みの女性は、自分にだけ淫乱で頭の良い、僕を、僕と僕の大切に思うことを愛してくれる女性だもん。そんな人いないことわかっているのにね。でもこれって、僕の中にある「エッチなことはいけないことだと思います!」的な価値観と、エッチな事大好きっていう価値観を、自分に歪みを生じさせずに解決させる唯一の願望なのだと思う。

 

つまりはだね、僕らが歪みを抱えず生きてくには、昨今の無駄に胸の大きい女子高生がたくさん出てくるアニメの世界にでも逃げ込まなくてはならないのだよ。女性にとっては、凶器と言えるような鋭い顎を持つ男どもしかいない世界か?

 

あ、軽くロリコンカミングアウトしてしまったが、気にしないでね。言い訳させてもらうと、あれだよ、女子高生ってのはメタファーで、独占欲の問題。自分は散々遊んでるのに、相手には生涯通じての純血を求めるような、そんな欲求から出た言葉だから。

 

正直すぎるかい?

でもね、僕ら人類はきっと、正直にならないとそろそろ次のステップは踏み外してしまうレベルに来ていると思うよ。

 

社会的な、もっと言えば、ヒトっていうか、動物的な、自身の遺伝子を残そうという欲求に根ざした性的な欲求。それでさえ、一致しない世の中じゃない?いろんな価値観があって、それが受け入れられているようで、その実、そうでもない社会は変わらざるを得ないだろう。

 

人の歴史は、多分そんなヒトっていう動物の欲求と、人間って言う概念的存在との間に生まれた歪みを埋めようともがいた歴史ではないのかな?

 

そんなさ、ヒトって、種が背負ったもんを、夏休み明けの子供は、その小さくか弱いと思われる身体と心で規模の大小はあれ背負って自ら命を断つ、決断をしてしまうこともあるんだ。

 

いいオッサンである僕にとっては、サッカー日本代表がロシアワールドカップへの参加を決めたのと同じ程のニュースバリューしか持たないのだけれども、確実に今年も9月に死を選んだ子どもたちがいる。

 

もし、叶うなら僕は彼らに伝えたい。君が劇的な死を選ぶほど、この世界に価値は無いし、暑いんだか寒いんだかわからない夏は君が一回きりの冒険をするにはあまりにもちゃちい舞台だと。

 

ってかさ、世界の歪みを君らが正す必要なんて、これっぽっちもないのだから。

 

少しは道を踏み外して見ると良い。死ぬよかマシな選択だとは思うんだ、僕はね。