幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

空想・妄想・思想?

今日はこの後ちょっとお出かけしようと思っているので、ささっと書いちゃう。

あのね、昨年あたりから、いやそれ以前からなんだけど、たぶん世間ではオカルトと呼ばれるようなある種の想いというか、想像があるのです。

よくよく、見かける引き寄せの法則なんですが、つまりは自分の思ったとおりになるってやつね。これに近いの。引き寄せの法則と言うのが、あくまで個人的なものであるのに対して、僕が考えているのは、世の中のあらゆることはそれを認識する人たちの総意に基づいて発生している。と言うものなのだけど、ある意味当たり前だし、真実ではないかと思う。

引き寄せの法則って言うのをね、僕がどう解釈しているかと言うと、要するに「自分のなりたい自分を想像すれば、その通りになる」と言うもの。ただ、多くの場合、ここにさらに「運」的な要素もコントロールできるような、そんなニュアンスを含んでしまう。

僕はこれは当たり前のことだと思っているの。僕がこの人生において、強く印象に残っている話のひとつにこんな話がある。

 

「ねぇ?流れ星に願いごとをかけるってあるじゃない?あれできると思う?」

「流れ星を認識してから消えるまでに、3回願いごとを唱えるってやつ」

「流れ星を見つけてさ『あ、流れ星だ!』って気づいたときには消えちゃうから、私はずっと無理だと思っていたんだよね。でもね、それができる方法を教えてもらったんだ。」

「あのね、ずっと、ずっと、もしかしたら星が見えるときだけでもいいのかもしれないけど、とにかくずっと、その願いごとを心の中で繰り返し繰り返し唱えていればいいんだって。」

「それ聞いたとき、わかっちゃったの。流れ星が願いを叶えてくれるんじゃなくて、そんな刹那にも繰り返し願うことが叶うんだって。」

 

無粋かもしれないけど、解説すると要するに最後の部分ですよね。「流れ星が願いを叶えてくれるんじゃなくて、そんな刹那にも繰り返し願うことが叶うんだって。」って部分。言葉として最小限にまで練りこんだ想い、そしてそれを常に頭の中に反芻している状態、その状態がその人の行動に影響を与えないはずがない。恐らく、最小限の言葉に練りこむ過程で、その想いを実現する様々な方法などについて検討し、最終的に結果を願いにするならば、その願いは「叶う」のではなく「叶える」ことができるものになるのだと思う。

でも、これはあくまで個人的なもの。個人の行動やその結果を変えることはできても、それ以外には影響を与えられない。でもね、思うのですよ。叶えたいことの叶う条件を自分で整えられさえしていれば、後は試行回数の問題であって、だいたいのことは叶うのではないでしょうか。具体的な例を出してしまえば、ギャンブルビジネスモデルなんてまさにそれでしょう。

ギャンブルは必ず当たるのです。勝ち負けじゃなくて、当たる当たらないのお話ね。勝ち負けは試行回数の多寡によって決まるもので、試行にかかるコストが低いのであればより勝ちやすい。

僕らが願い行動することで、試行コストを極限にまで低くできれば、試行回数は増えて、願いは叶いやすくなる。だから引き寄せの法則っていうのは、ある意味すごく納得の行くことなんだと僕は思っているのです。

まぁ、問題は何をコストとするかなんでしょうけどね。

で、ここからが本題。

僕の空想と言うか、妄想と言うか、思想的な部分。

特に最近思うのだけど、マスコミの力が相対的に弱くなってきて、さらにその感を強くしているのだけれども、世の中の出来事もまた、人々が願うとおりにしか動かないのではないかと思うのです。

今、日本の社会が抱えている問題には少子高齢化だとか、いろいろな問題がありますけど、昨日今日に始まったものではないし、対策を行うチャンスは今までにもあったはずです。それを行わずに来てしまったのって、基本人間が動く原理は感情的なものだし、そして、その感情は移ろいやすいからなんでしょう。そう、あれです、夏休みの宿題です。7月中に片付けてしまうのが賢い方法だなんて、大人に言われなくても子供だってわかっているけど、それでもまだまだ多くの子が夏休み終わりの1週間であせりながらやる。当事者意識って言うのが希薄だからなんでしょうね。

シュレディンがーの猫は死んでいようが、生きていようがどっちでもいいわけじゃないですか?でも自らが箱の中に閉じ込められて、状況を把握しているのであれば、望む結果を得るために何かしら行動をするのだと思うのです。

ネットが普及する以前は閉じ込められた人々の中で声の大きい人が尤もらしく、正しく思えましたけど、ネットが普及しちゃったら、それがただ単に声が大きいだけってのがバレちゃったし、権威だと思っていたことが全然権威ではなくて、単に利権の代表者でしかなかった。

そうなると、箱の中の人たちは何を望んでいいのかがわからなくなっちゃうんだろうね。

誰もが望むような世界。

それはきっと既にイメージはできているんだと思うの。

ただ、まだまだその具体的な実現方法とか、試行にかかるコストが下げられずにいる。だから世界は混乱し、不謹慎かもだけど、僕はそれが面白いと思っている。でもちょっとだけ心配しているの。シンギュラリティというものや、AIが新たな”権威”になりつつあることが。

AIは確かに権威にはなり得るけど、価値観にはなり得ないから。シンギュラリティによって試行コストは恐らく激減する。そうなるときっと、大きな社会変革が起こるだろう。AIは権威になり、その権威の下す判断によって社会が運営されることになったら、人はそれをこれまでの自然物のように人の価値観を構成する要素として扱うことができるのだろうか?それとも、権威が価値観となってしまうのだろうか?

そうなったら人間っていらなくない?

ってかそもそも人間ってなんだ?

で、以下、堂々巡り。

そんなこんなで、僕はかれこれ20年ほど悩んでいる。

でも目先の悩みは服を買うことだ。

どんな服着たらモテるんだろ?