幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

バランス

結局のところ、これが大事なのだと思ったのです。

先日のニュースで、北海道で起きた女子高生が母と祖母を殺してしまった事件で、その姉が殺人幇助の罪を問われているというのがありました。

この事件、非常に胸の悪くなる事件で、距離的にも立場的にも僕には関係の薄い事件ではあるのですが、いろんな問題を象徴しているように思えて、発生当時から気になっていました。母と祖母の「しつけ」と言う名の虐待に耐えかねての犯行。当時世間の反応も様々だったと記憶しています。

子供を相手にする仕事をしていると、時々と言うか、常にそう思い知らされるのですが、家庭って大事だなぁって思うのです。特に10代の子供たち、家庭が相対的な存在になる時期における家庭の存在って本当に大きい。

たぶんどんだけ苛烈な環境であっても、家庭が絶対的な世界であるうちは問題は表面化しないのだと思うのです。他を知らないから受け入れるしかないと言うことが表面化を妨げているだけで、問題がないわけじゃないのですが、子供からの発信で問題が表面化するのは、子供に社会性が出てきてからなのだと思います。

それをきっと大人たちは「反抗期」と呼んだりするんでしょうけど、実はそれって家庭が社会化してゆくプロセスなんではないかと思うのです。それまでは、親の価値観で家庭内のルールが決められていたけど、子供が持ち込む子供の社会性が家庭と言うある種封建的な社会に民主化をもたらすみたいな?もちろん、目的なき反抗ってのもあるんでしょうけど、今の時代、と言うか僕の接している子供たちは無駄な反抗はしない子が多いです。僕の立場がそういうものなのかもしれませんが、僕の接する子供たちのご家庭は比較的に経済的にはある程度の余裕をお持ちのご家庭が多いのも背景にあるのかもしれません。

しかし、それ以上に、情報量が影響を与えているのではないかと思うのです。僕の子供のころに比べて、情報が多く、親の世代も子供と共に家庭の民主化を日々行っているからなのかもしれません。

そんな中で「しつけ」が「虐待」と言われるのはどこからなのか?って問題があるのだと思うのです。もちろん、もっと大きな問題を孕んではいるのですけど、この事件に関しては、このラインなのだと思うのです。

無秩序であることと自由であることが違うのと同じくらい、「しつけ」と「虐待」は違うものだと思います。明確に違うのですが、はた目から見るとその線は曖昧で、多くの場合は主観的な判断になっているかと思います。そしてその主観を作るのはきっと、個人と社会との関わりの中でなのだと思うのです。

僕自身を振り返ってみてもそうなのですが、世間体やら社会的な自分を考え過ぎていると、自分自身が見えなくなってしまうし、一方で自分自身を深く見つめなおすと周りが見えなくなってしまう。そんな振り子のような自己意識で判断されるラインはきっと常に揺れ動き、たぶん大人においても、この辺りの線引きが難しいからブラック企業を辞められないとか、ブラック企業とホワイト企業の線引きの難しさにもつながっているんじゃないかと思うのです。

バランスの均衡点。それが人ぞれぞれ違うからこそ世界は面白いのですが、きっとそれが大きく世間からかけ離れてしまうと途端に社会は生きづらくなるんでしょうねぇ。

 

どうやら僕は少しそのバランスがずれてしまったみたいです。