ここ10年ほどスノーボードをしていないが、一応カナダ仕込のボーダー(自称)である。
スキーやスノーボードをやる人ならエッジに乗るって言う感覚をご理解いただけるだろう。接地面が大きければ大きいほど抵抗も大きくなり、スピードは落ちる。接地面が少ないエッジに乗っている状態は抵抗が少なく、カーブでもスピードが乗り、その跡は線のように細い轍となる。
物体の落下速度が同じなわけだから、斜面を滑り降りる時のスピードはどれほど抵抗が少ないかで決まる。スピード狂って訳じゃないのだけど、やっぱある程度スキーやスノーボードの醍醐味ってスピードにあると思う。
上っては下りの繰り返し。ともすればそれは「シューシュポスの神話」のようではあるけど、楽しみとして行う。その行動自体に意味がないようでいて、実は意味そのもの。
どんなに楽しいことも数回やったら多少なりとも飽きるもんだ。でも、いろいろとコースを変えてトリック入れたりして何度でも楽しんでゆける。人生も似たようなものなのかな?何か直線的に目的や目標へ向かってゆくのではなくて、繰り返し同じことをしていて、ただその手段や経路が違ったりする。
同じコースを辿る安心感。
道に迷う不安と期待感。
そんなものが入り混じって、生活は送られてゆく。
時に、迷い、時に道さえ見失う。
そして、いまこの文章は行き先が行くへ不明w
本当はね、”淵”ってものについて書きたかったの。
あるいは”際”って言うべきなのか?
つまり、ボーダー(境界線)。
全体を捉えようと思えば、全体を俯瞰できるように考えてゆくものだと思う。でも、多くのものはその境界が曖昧だったりして、寄って見てさらにそこに細かな世界がたくさんあったりして、混乱してしまうことが多い。
でも、何か行き詰ったときには引いて物事を俯瞰するのに限ると思う。
普段から大雑把な僕が言うといけないのかもだけど、ときに大雑把に考えることが状況を把握するのによい事もある。
自分自身を対象として捉えようとしても、どうしても抜け出せない自我。それ故に、ここにあるらしいけど、それでも俯瞰しようとする試みは決して無意味ではない。
な~んて珍しく早く起きて起き抜けに考えた。