恥の多い人生を送ってきました。
で、始まるのは人間失格だったかな?
中学生のころ、親の出張に連れてってもらって秋田まで行った際に、「自由行動」ってことで、一人で青森は五所川原まで太宰治の記念館、斜陽館まで一人で行った。
そもそも、泊まった秋田の旅館が恐ろしく当時の僕の生活からは乖離した環境で、テレビの時代劇で見るような風景で、実家である埼玉の駅も10分に1本くらいしか電車が来ない田舎ではあるものの、3時間に1本とかと言う場所にあった。
駅舎は木造で人がおらず、切符売り場の押しボタンは金額が刻印されている箇所は5~6個。そんな場所だった。そこから仕事へ向かう父と一緒に逆方向へ出発したときは、自分から言い出したこととは言え、不安しかなかった。
線路は単線、走る電車も1両編成。おそらく地元の高校生と思しき制服姿の子供たちがチラチラ見てきては、何やら現地の言葉で話をしている。いやね、津軽弁とかってもう標準語からかけ離れすぎていてわからない。まだ若い子はときどき僕の知ってる単語を発してくれていたので、会話の内容がわかったのだけど、お年寄りはまったくわからなかった。どうやら、その電車に乗っている人たちというのは普段まったく同じ顔ぶれで、僕が奇異の対象になっていた。それもそうだよね、中学生にしては大柄だった僕は私服を着ていると高校生以上に見られることもあったから、しかも当時ちょっとヤンチャだったので、格好は推して測るべしって感じの格好だったし、目立つのは仕方なかった。
で、まぁ一人でバスとか乗り継いでどうにか到着するのだけど、バス乗り間違ったりして地平線が見えるようなところで降ろされたり、着いた記念館で受付の人との会話で津軽の人が津軽弁と標準語のバイリンガルなんだなぁって思ったり、そんな経験ばかりが思い出として残っていて、肝心の記念館の展示なんて何一つ覚えていない。
って、太宰治に関する思い出話ではなくて、僕の反省文。
太宰治には負けるけど、僕も恥の多い人生を送ってきてしまった。
太宰治にあった文才が僕にあるのかは不明だけど、今のところそれは発現しておらず、僕の実家が「○○館」となる予定もまったくない。
でもそれは僕が書いていないだけなのかもしれないので、書いてみようと思うのだ。
実家に帰ると最近母が言う。
「あなたも又吉さんみたいに書いてみればいいのに・・・」
高校生のころ、当時担任だった国語の先生から面談のときに言われた僕への評価と、僕の読書量から母はそんな期待を持ってしまう。確かに、僕の読書量は多いのだろうけど、でも世の中にはもっと多い人がいて、僕は環境によってその読書量が変わってしまうなんちゃって読書家だから・・・
でも、僕の中にも「書きたい」と言う想いはあるのだ。
このブログをご覧になっている方ならご存知のとおり、僕の文章は最後がいつも強引。と言うのも、僕は途中で飽きる。
実のところ、このブログも公開している記事の2倍の下書きが存在している。
書いている途中でいつもいろんなことに想いがが飛び、読み直してみるとどうにもまとまりがないものが多くて公開に至らない。でも、どうしても公開したいって思えるものは、最後は強引だけど公開してしまうのだ。
時間がない。と言うのは言い訳だし、結局そこをとことんまでこだわれるかどうかがプロとアマチュアの境界線なのだと思う。僕は自分をアマチュアだと言う風に規定して、「ま、いっか」で見切り発車してしまう。
そのこと自体は、まぁある意味仕方のないところなのかも知れない。って言ってるから駄目なんだけどさ、でも、それ以上に問題なのは「最後までやりきる」と言うことができない。
僕はたぶん「器用貧乏」って奴だ。
何をやらしてみてもおそらく標準よりは上手くいく。だけれども、それを極めるに至らない。
ウサギとカメで言えば、ウサギだし。アリとキリギリスで言えばキリギリスな僕。
それを改めたいと思うのだ。
そこで、このブログでひとつの物語を完成させます!(宣言)
と、言ってしまえば、たぶん強引にでも書き上げると思う。
一応、既にフィクションである物語をちょいちょい書いているけど、そろそろ書くのが辛い内容になってきているし(とは言え、こっちも完成させるつもり)、新たな物語を書こうと思っている。
それは、プロットから全て公開してゆこうと思います。
期待せずに、生暖かい目で見守っていただければ幸いです。