最近はいろいろとあり、ほとんど書けてないし、読めていないのですが、僕は元気です。
さて、今日はちょこっと備忘録的なもの。
出勤するときに、空を見上げて思ったこと。
どんよりと雲に覆われた空。
ただ、陽の光が弱いと言うだけで、少し肌寒く感じると言うだけで、それだけなのになぜか心が浮かない。
昔、学生時代に聞いた話を思い出す。
「キルケゴールはヒースの荒野に立って神を呪った」
敬虔なキリスト者であったキルケゴールが、自分の住む北欧の荒れ地にその境遇を嘆き、神を呪ったと言う。ん?キルケゴールのお父さんだったかな?
ま、そんなエピソードを思い出した。
アスファルトとコンクリートが殆どを占める僕の視界で、この曇天が何故かそのエピソードを思い起こさせた。そして、キルケゴールからの連想。
「絶望は死に至る病である」
なんか、しっくり来た。
曇天の下、ヒースしか育たないような荒野で希望を見出すのは難しい。
キルケゴールの言った「死に至る病」は別のものなのだろうけど、その言葉の浅い意味において、僕は変に納得してしまったのだった。
で、そこでまた思考が転換する。
ヒースの野に立って何故絶望したのだろうか?
曇天で何故絶望したのだろうか?
現在の知識で言えば、セロトニンやらそんなホルモンの影響とかって言えるのかもしれないけど、もっとなんというか、そう言った原因ではなく、理由を考えてみた。
要するに、キルケゴールだか、その父親だかはその大地では「ヒースしか育たない」から絶望したのだろう。曇天はそんな痩せた大地で、しかも日の光も十分でないことが追い打ちをかけていたのではないだろうか。
で、思ったの。
でもこれって、土地が痩せていることや植物の育成にとって日光が重要であることを知っているから絶望できるんだろうなって。
詳しいことは、忘れちゃったけど、たしかキルケゴールも絶望の3様態みたいなことを言っていたような気がする。
その中に、絶望しているのに絶望していることに気付かない絶望。と言うのがあったような気がする。
僕は、いや、もしかしたら現在の人類は、って大きく書いちゃいますけど、まさにこれなのかも知れない。全ての人がとは言わないし、そうであって欲しくはないのだけどね。でも、現在僕らが知る情報を集めてみれば、地球温暖化やら経済格差やらいろんな問題があって、それらから判断すると将来に希望なんて持ちようがないような気がする。
でも、それでも僕らは希望にすがりたい。と言うか、それがないと生きて行くのが難しい。
望みを絶たれた状態を絶望と言うのならば、望みを持てない状況もまた消極的な絶望なのではないだろうか。
今の子供たちに、ほんのちょっとだけそんなところを見てしまう。
備忘録的に・・・