そろそろ下火になってきたので、備忘録的に。
最近何かと話題のミニマリスト。
よくわからないのだけど、最低限の持ち物で生活するライフスタイル?
たぶん、僕はミニマリストだと思う。自覚はないけど。
僕が持っているものは必要なものだ。
他人に何を言われようとも、水槽テーブルは僕に必要なものだし、光るテーブルも僕に必要なものだ。テーブルが光る必要もなければ、水槽である必要はないのだけど、僕には必要なのだ。
もちろん、無駄遣いをしてしまうこともある。
結局とらなかった資格関係の本だとか、ほとんど見ることのないテレビとか。
でも、そんときは必要だと思ったんだよね。そんなこと言うと人はそもそも無駄な買い物はしないんじゃないのかな?
僕には何が贅沢なのかわからない。
欲しいものを欲しいと願い、手に入れることは贅沢なのかな?
要するに、無駄なもの贅沢なものっていうのはたぶんこう言うことなんではないだろうか?
「車としてフェラーリを買う」
フェラーリは車だけど、車じゃない。
車と言うカテゴリには入るけど、あれは車じゃない。芸術品。
車の機能を持った工芸品とでも言うべきだろうか?
車としての機能にももちろんこだわりがあって、素晴らしいのだろうけど、正直な話、ただ走るだけならあそこまで華美である必要はない。
ミニマリストという言葉があえて存在すると言うのは、きっと僕らは「もの」にその物が持つ機能からの定義以上のものを求めてしまっているのだろう。
ブランドもののバックだとかスーツ。
もちろん好みの問題だろうけど、それぞれを機能面から考えた場合に、そこまで必要はないのだと思う。ってかそもそも、スーツでもバックでも、その求められる機能から考えたら大体のものはオーバースペックだ。
結局のところ、いわゆる付加価値というものが贅沢なのだろう。
何が付加価値なのかって考えてみる。
要するに、その求められる機能以外の部分が付加価値なんだろう。
何かの本で読んだのだけど、その点で言うと最高に付加価値が付与されているのは、暴走族のカスタムバイクなのかもしれない。バイクと言うものが求められている「走る」と言う機能を犠牲にしてまで、彼らは「かつて」自分のバイクを改造していた。ある意味においてその価値はフェラーリ以上なのだろう。
じゃそもそも価値って何だ?
人に上下がないように、物にだって機能さえ果たせば上下はないはずなのに、実際は人にも物にも上下がある。でも実はその上下ってさ、貨幣や時間って言う統一尺度で測った場合のみ発生するんだよね。
人を貨幣で語るのは基本的に間違いだと思うけど、でも、実際のところ僕らは人の上下を何かしらの有用性なんかで測ってしまうことがある。それは人に課せられた「ペルソナ」、つまり機能面での役割において測ってしまうのだと思う。
As 男として
As 女として
As 社員として
As 上司として
As 親として
As 子として
As 恋人として
As ○○として
男としての僕。
大人としての僕。
人としての僕。
実はそんなものに興味はない。
でも、でもね、僕は女性が好きだし、子供は嫌いだし、人が好き。
だから、それを欲するとき、僕はその相対するペルソナを演じてしまう。自分が見出している価値に見合った自分であるために。
本当は僕でいたいのだけどね。
いろんなペルソナがあって、それぞれの機能面で求められる尺度があって、それらは比較検討可能になる。その尺度を意識して、尺度以外の価値を付与することが付加価値であり、そこにもこだわってしまうのが贅沢なのかな?
えっと元のネタはなんだっけか?
あ、ミニマリストね。
人によって何がミニマムなのかってのも違うし、一口にミニマリストって言う定義を考えるだけ無駄なんじゃないかな?
要するに、これは僕の願望なのだけど、ミニマリストって言うのは自分の価値観を持っている人ってことであって欲しいのです。
「生活の智慧」的な節約方法を多く知っていることがミニマリストというのはあまりにも悲しいと思うのです。いいじゃない?別にさ、人それぞれ価値観なんて違うだし、ひとつの定義に拘泥して喧々諤々と悪意ある言葉を交わす必要なんてないんじゃないのかな?
それこそ、ミニマムとは違う方向性にあるものだと思うのだけど、どうなんだろう?