幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

犯人捜しは誰のため?

痛ましい事件が起きてしまった。

いや痛ましい事件が起きていると言うべきだろうか・・・いじめによる自殺。

 

マスコミはセンセーショナルに先生の「見て見ぬふり」を責める。

でも、それって意味のあることなんだろうか?

もちろん再発防止の為に問題点があれば修正すべきだろう。

僕らはマスコミなどから得た限られた情報で判断してしまうけど、そこには明らかに誰かを「犯人」に仕立て上げようとする意図を感じてしまう。そうしないと、あまりにも悲しすぎるから。でもね、責められるべきはいじめていた子供たちだと言うのを忘れてはならないと思う。

ときに子供たちは嘘をつくから・・・

ノートに書かれたことを見て先生は直接その子にヒアリングをしたのかもしれない。でもきっとその子は「大丈夫です」って言うと思う。そう言われたら、ノートの返信でそのことに触れるようなことは書かないだろう。さらに先生もきっとそう言うその子の意思を尊重してしまった・・・なんてことがあったのかもしれない。と言うかあって欲しい。

もし、本当にこういうやり取りがあったのなら、今のマスコミの先生に対する報道の仕方って、そのまんま「いじめ」の構造と同じじゃないのかな?

 

いじめって個人の責任に落とし込める問題なの?

いじめによる自殺は、今回に始まったことではない。

最早「いじめ」ではなく刑事事件と言っていいような「いじめ」はこれまでに何度も場所を変えて起きてきた。それは大人の世界にだって発生するし、子供の世界に限ったことではないのだろうけど、子供の世界は僕ら大人が思っている以上に狭いし、子供にとっては絶対的だ。その狭い絶対的な世界に居場所がなくなってしまえば、子供は逃げることさえできない。いや、知らないのだ。

と言うことを、こちらのエントリを拝見して思ったのです。

 

blog.inakano-masa.com

 ※勝手に言及してしまいすみません><

逃げることって悪いことかな?

 

Evaのシンジ君みたいに「逃げちゃダメだ」なんて言っている子供がいたらその子は極限状態なんだと思う。

でも確かに、「逃げる」って印象は良くないですよね。だから僕は、決していい言葉とも思えないけど、どうしても「逃げる」って言葉を使いたくないって子供には「戦略的撤退」とか「緊急避難」なんて言葉を教える。

結局、いじめがなくならないって言うことを僕らは認めなきゃいけないのだと思う。それはなくなるのが一番いいのだけど、でも社会の構造的に完全になくすことはできない。そもそも「いじめ」の定義があいまい過ぎる。

いじめと言うものを加害者と被害者のいる対立構造で捉えてしまうからいけないのだと思う。対立構造は「喧嘩」のようにも見えるし、子供に関しては「喧嘩」から学ぶことも多い。大人の介入によってさらに陰湿になったり、「いじめ」が確定してしまうこともある。いじめって、悲しいけど社会構造の問題だと思う。社会構造と言うか画一的な目的を持った集団の中で発生する、教化矯正の働き。そしてそこから転じて排他的に作用する動き。そこには個人としての悪意があるわけではなくて、むしろ共同体や集団にとっての正義がいじめている側に存在することもある。その正義は絶対的なものではないし、それがあるからと言っていじめを容認することはできないのだけれど、加害側に悪意がない場合こそ始末が悪い。もしかすると、これってナチス強制収容所における残虐行為の心理に似ているのかもしれない。絶対的な力の差を持った上で独自の正義を着てしまうとき、人は浅ましい快楽を、その残虐な行為に感じてしまう。

職場などの「大人の集団」であれば経済的な損得はさておき、そのような状態になってしまったら逃げることは比較的容易い。一方で学校と言う空間は逃げ場が限られてしまう。

だから大事なのは起こってしまってからなんだと思う。

「いじめられるのは恥ずかしい」「いじめられるのは不名誉なことだ」「いじめられるのは自分が悪い」なんて思わないこと。

もうこのあたりは、こちらのエントリにお任せします。

utatanenikki.hatenablog.com

僕ら大人ができるのは、いじめをもっと「普通のこと」として捉えることなのかもしれない。子供たちが「てへ。今日いじめられちゃった」なんて軽く相談できるようにいじめと言うものを深刻な個人的な問題から、もっと一般的な、それこそ雨が降ったり、風が吹いたりするような自然現象のように、誰にでも起こりえるものにしてゆくことなんではないだろうか?

 

悲しいけど、自然現象による被害が出ても誰かしらの責任を問うような国では難しいかな?