青々としていた木の葉は、涼しい風に吹かれて色づいていた。
風が吹く度に、カサカサと音を立てる。
見上げる空は、どんよりと雲に覆われていたけど、時々見える雲の切れ間からは、夏の名残を感じさせる青い空が見えていた。
もう10年以上も使っている僕のバックパックにも落ち葉がかかる。
すると、その落ち葉をさっと払う手が現れる。
片手で僕のバックパックをしっかり握り、俯きながら歩く少女の姿がそこにはあった。
僕は再び天を仰ぎ、ため息をついた。
数日前。
僕の前で彼女が珍しく目を吊り上げて言った。
「イヤだ。行かない!」
その週末に行われる志望校の学園祭で入学希望者に向けた相談窓口が開かれるので、それを受けてくるように言ったとき、僕の言葉が終わらないうちにこんな反応だった。話の途中までは笑顔だったのに・・・
僕は、若干ポカーンとしてこの反応の意味を考えた。が、わからなかった。
「いや、大事でしょ?まだ行ったことないよね?大学?それに、事前相談しておくと学校によっては有利に働くこともあるんだよ?」
と、お仕事で使う猫なで声を駆使して言ってみた。
「でも、絶対嫌だ。人いっぱいいるんでしょ?」
とさっきの怒りに満ちた反応と打って変わって、弱弱しい反応。
「そりゃ、学園祭だからね、人はそれなりにいるだろうけど、良い機会じゃない?学校の雰囲気とかもわかるしさ」
と猫なで声が必要なくなったと判断した僕は言った。
すると、彼女は俯き、しばらくしてから蚊の鳴くような声で言った。
「わたし、人が多いところダメなの。人がたくさんいるところ一人であるけないの」
言葉にこそしなかったけど、僕の頭には”アゴラフォビア”と言う言葉が浮かんだ。僕にはそう判断するだけの知識も資格もなかった、でも経験だけあった。以前お付き合いした女性がそうだった。
「そうか、なら・・・」
と、ここで僕は言葉を呑んでしまった。友達もダメだ。これまでの彼女の話から、友達づきあいがないわけじゃないけど、一緒に遊びに行くとかは少なく、進路もまったく別の進路を選んでいるようだし、母親も、これはたぶん絶対にここで出してはいけない言葉だ。苦し紛れに僕が言い出した言葉は
「お父さんと一緒に行ったら?」
すると彼女は肩を落とし
「お父さんきっとお仕事だと思う。今週末から出張って言ってたから・・・」
と殆ど聞き取れない声で言った。鳩尾の辺りでギュッと握ったこぶしが震えていた。そして、苦しそうに机に伏してしまった。息遣いがおかしい。過呼吸だ。年頃の子たちにはそう珍しいものでもない、けど、僕の経験は僕の脳裏に”パニック障害”と言うことばを浮かばせていた。
「大丈夫?」と慌てる僕。
苦しそうな表情で、彼女は答える
「だ、だいじょうぶ、少ししたら収まるから・・・」
とても大丈夫ではない表情で言う。
僕はその反応から彼女がこれまでにも同じような症状を経験しており、しかもそれが結構な頻度で発生していることを理解した。彼女の全身から力が抜けてゆくのがわかった。椅子から転げ落ちそうになるのを支え、とにかくこの症状を治すことはできなくても、怪我をさせないように安全な場所へ寝かせることにした。
力の抜けた彼女の身体は思っていた以上に軽く、僕が不安になった。世間で言うところの「お姫様抱っこ」と言う状態で彼女をバックヤードに運び、絨毯の上へ寝かした。苦しみもがく彼女はスカートがめくれても直す余裕もない。僕は着ていたジャケットを脱ぎ、彼女の足元を覆うように被せた。
このもどかしさ。苦しむ人を目の前にして、何もしてあげられない。過呼吸の対処方法を思い出し、僕は彼女を膝枕をするように抱えた。声をかけて、ビニール袋を手に持ち、彼女の口にあてがう。不規則に膨らんでは、萎むビニール袋。やがて、その動きが規則的になり、彼女の身体にも力が戻って来るのがわかった。
すっかり落ち着き、ただ、まだ力が戻らない彼女は言った。
「もう大丈夫だから、お仕事してきて・・・」
僕は彼女の言うとおり、仕事に戻った。でも気になり、数分おきに様子を見に行くと、いつの間にか彼女は寝息を立てて眠っていた。30分ほどしたころに、再び見に行くと、僕の足音に気づいてからなのか、その前からなのかはわからないけど、僕のスーツの襟を鼻にくっつけ、
「むふふ・・・先生のにおい~」と、足も露にのた打ち回っていたのを、僕は見なかったことにして、仕事へと戻った。
見上げた空は、相変わらず雲が多かった。
銀杏並木が一斉にカサカサと音を立てた。しばらくすると、雲が風に流され、眩い光があたりに満ちていた。
僕のバックパックを掴んでいる手から力が抜けた。
振り返ると僕と同じように空を見上げている彼女がいた。
遠くから、若者たちの声が聞こえる。
「この子が一人でこの場所を毎日歩く日が来るのだろうか?」僕はそんなことを考えながら、彼女の表情を見ていた。無垢な笑顔。自分に感じていた罪の意識も洗い流してくれそうな程の笑顔。僕はこの子がここを歩けるようにするために来ていると意識を新たにした。ここへ来る途中の電車内でずっと僕の手を握ろうとしていた、あの悪魔のような存在を忘れていた。
電車内での攻防の末、彼女は僕のバックパックを掴むことにし、僕もそこで停戦を受け入れた。彼女が電車内で話してくれたのは、あの日、学園祭と説明会があることは既に知っていて、僕と一緒に行きたいと思ったらしい。そこへ、僕の口からその話が出て「一緒に行こう」と言う言葉を期待していたのに、「行ってきなさい」だったので、ムカついたそうだ。
そして、その後の過呼吸についてはやはり、これまでに何度も経験しており、その原因が母親であることも自覚していた。あの日はお父さんが出張でいないこと、学園祭に行かなければ、終日母親と一緒にいなければいけないことと、一人で行くことの恐怖とを天秤にかけた途端に、ああなってしまったそうだ。
それを聞いた僕は、妥協策を提案した。
一緒には行かない。僕は僕の事情で学園祭へ行き、たまたま同じ時間に行くということにした。一日しかない僕の貴重な休みを提供するのだ、ありがたく思ってもらいたい。しかし、彼女は言った
「良かったねぇ~先生、かわいい女子高生とデートできるじゃん」
ケタケタと笑いながら、僕のジャケットを羽織っていた。
僕は久しく忘れていた人を殴りたいという衝動をこのとき思い出した。
学園祭は、よくある感じのものだった。
人の多さにずっと僕のバックパックを掴み続け、興味があるものを見つけるたびに引っ張られた。まるで腰紐をもたれたような気分だった。
受験相談のときにも行って来いという僕のバックパックを離さず無理やり教室へ連れ込み、一緒に受けさせた。相談員の人が僕らの関係を見抜けず、戸惑いながら、
「親子・・・ではないですよね?ご親戚の方ですか?」と言うのに対して自信満々に
「彼氏です!」
と言う君。
僕は慌てて、訂正し、自分の身分を明かした。
幸い、彼女の情報も残さずに相談できたので、受験に影響はなかっただろうけど・・・その後僕は結構本気で怒った。
彼女はどうしても「デート」にしたかったらしい。少し涙目になりながら言った言い訳を聴いて、僕はそれ以上怒ることも出来なかった。正直に言えば、そこまで想ってもらえることは決して悪い気分ではなかったしね。
結局、君はあの道を一人で歩くことはなかった。
残念だけど、今は別の道を歩いて別の大学へと通っている。
ごめんね、君の願いは叶えてあげられなかった。
でも、あの時、君のあの時の願いは叶ってたのかな?
地元の駅で、別れたあと僕の後をこっそり追ってきていた君に僕は対応に困った。
人に見られたくなくて、駅から離れた公園で押し問答。
沈む夕日が綺麗で、見とれていたら君はキスしてきた。
そして、「ありがと、ご褒美です」って
怒る気もなくなった。
怒るべきだったのかもね。
でも、きっともうあの時、僕も嫌いじゃなかったんだよ。
それでも、押しとどまれたのは、仕事の意識もあったけど、それ以上に”共依存”を恐れたからだったんだ。
だからその後君がくれたメール
"I'm verry happy,I'll never forget today,You gave me everything"
ってメッセージに対して
”I can give you everythings whatever you need without love”
って返したんだ。
でも、逆だったかな?
愛って気持ちだけしか君にはあげられなかった。
~End~
フィクションですから。
ホント。
うん。
無事”注目のブログバブル”期間も終わり、以前のようなPVになりました><
さっさとこのシリーズ完結させちゃおうっと。