※6/20「意識高い系とよばる人々」への言及がないことに気づき加筆しましたw
ありの~ままの~姿みせるのよ~♪
ありの~ままの~自分に~な~る~の~♪
と毎日どこかで聞いたのも、もう懐かしい思い出。
と言ってもまだ半年くらい前なのかな?
僕の信条のひとつに「無理しない」と言うのがある。
だから、この歌が心に刺さってもいいはずなのに、なぜか刺さらなかった。
曲とか好きだし、歌としても好きなんだけどね
実はこっちの方がすきだったりする
このヒゲのおじさんすごい!
他の動画もかわいいので是非ごらんなってくださいね^^
さてさて、「ありのままでいる」=「無理をしない」ではないからなんですねきっと、僕に刺さってこなかった理由って。時には他人に合わせることの方が楽で、無理がないことってのもありますしね。
でもきっとありのままでいるのって本当はすごくいいことなんだと思うんです。
でも。実はそれってすごく難しいことじゃありませんか?
そこで、何故「ありのまま」でいるのが難しいのか考えてみました。
ありのままいるのが難しい理由
ありのままが難しい理由は2つあると思います。
1つ目は、「ありのまま」がわからない。
2つ目は、同調圧力。
他にもあると思うのですが、たぶん大きいところではこれでしょう。
では、それぞれに考えてみましょう。
わからない「ありのまま」
ありのままでいることは、決して目指すべきものではなくて、「いつかきっとそうなってるもの」で良いような気もします。僕には今の自分がありのままでいられている自信はありませんが、でも多分、社会人としてダメなところの多い僕は、「自由人」やら「社会にコミットする社会不適合者」やらいろいろな言われ方をします。もしかしたら「ありのまま」の自分に近づいているのかもしれません。若いころに比べ、丸くなりましたし(体型的にも><)、曖昧だった自分の境界というのが、悲しいけど小さく、明確になってきたような気もします。それに伴って、自分と他者との違いに悩むことも少なくなりました。他人と違ってもいい。他人と目指すところが違う。そんな自分を受け入れることが出来てきたんだと思います。
小難しい話になりますが、これって要は自己ラベリングの問題のような気がします。「自分はこういう人間だ」と言う思い込み。
我々の扱う言葉と言うものは抽象的なものです。例えば。「赤」と言う言葉を聴いたとき、人々が想起する「赤」は必ずしも同じではありません。僕らが想起しているのは「赤」と言う色に課せられた「赤性」なのです。それは辞書を引いたときに書かれているような、決して具体的なものではなく、抽象的な表現をいくつも積み上げて具体的に見せているだけのものです。
自分と言うものに対しても、同じではないでしょうか?自分と言う断片化された知識を集めて説明書もなしに組み上げてゆくプラモデルのような存在。パーツが少ないうちは、パーツ毎の接合部分もゴツゴツしてて、尖がってしまっていたり、時には鋭利さえなるような、あの若いころの不安定さというか、儚さはそんな気がします。
そして、僕らはその不完全な造形物を見て「自分」だと認識しているのではないでしょうか。
僕らは「自分」と言うものと常に同化していますが、過去や未来、あるいは現在であっても自分を対象として捉えることができます。厳密には完全に対象化されているわけではないのでしょうけどね。その経験が積みあがってゆかなければ、僕らは「自分」と言う存在に対して知識を獲得することはできません。ソロスの言う「再帰性」ではありませんが、自分の作り上げた自分を眺める度に自分に対する知識を得て、その知識がさらに自分を変化させます。つまり、自分の中の自分像っていつもあやふやなものになってしまうのです。
だから「ありのまま」の自分を捉えることができない。
そんな感じなんじゃないでしょうかね。
同調圧力という勘違い
他人って思っているほど自分に興味なかったりします。でも、どこか自分自身がそのコミュニティに属していたいと言う気持ちがあると、他人から自分に対する要請が存在していると思いたくなるものです。それは、コミュニティが狭ければ狭いほど強烈に感じられ、その最たる場所は家庭なのかもしれません。核家族化が当然のようになり、家庭と言うのが閉ざされた空間になったことで、それは比較対象のない絶対的な社会になってしまう場合があります。そして、その絶対的な世界だったものが、他の世界と触れ合うことで、相対的になったとき、外の世界との差異が僕らに同調圧力として感じられるものなんではないかと思います。
でも、これも結局のところラベリングの問題です。明文化されていない、たとえ明文化されていたとしても、社会のルールと言うのは、それぞれが「そうだろう」と思い込んでるだけのものです。言葉の例で示したように、そこに書かれていることや言われていることが個人の間で完全に一致するものではありません。中Ⅰギャップやら新入社員の五月病やらといった、新しい環境で発生する諸問題は、新しい環境で経験的にしか学べないようなルールとこれまでの自分の中で培ってきたルールとの差異が生んでるものだと思います。
と言う前提に考えると、同調圧力によって僕らが「ありのまま」でいるのが難しいのではなく、むしろ僕らが「同調しなければならない」と思い込んでいるところが問題なのだと思います。そうなると、途端に自分自身のありかたの問題になって、実はもう既に僕らは「ありのまま」でいるとも言えちゃう気がします。結局のところ、自分の「ありのまま」と実際に社会生物として生きている自分の「ありのまま」とのギャップが僕らを「ありのまま」という幻想に掻き立てているのかも知れません。
いわゆる「意識高い」人と「意識高い系」と呼ばれる人の違いはここにあるのではないかと思う。意識高いと言われる人はたぶん「ありのまま」でいられている人なんだと思う。一方で「意識高い系」と呼ばれる人たちは「ありのまま」でいようとして、こじらせているんじゃないだろうか。
たぶんだけど、意識が高い人って自分が意識が高いと認識はしていないし、他人の意識を高低で感じ取ることもないじゃないかな。一方で意識高い系と呼ばれる人たちは、自分の意識の高さと言うのを他人の意識の低さから感じてしまう。別に意識高い系の人が嫌いなわけじゃないのだけど、でもさ、僕は意識の高低がわからないのだ。
昔、IT土方していたとき。まだ意識高い系という言葉がなかった時代のお話。僕はスーツ着て、朝のスタバで成果もなくノートパソコン開いては眉間に皺寄せてパワポ資料や英文ドキュメント開いてた。とにかく時間が欲しくて、職場や家では僕の意識に対するノイズが酷くて、人ごみの中で感じる孤独感からその選択をしたんだと思う。その時の僕には、定時で帰る同僚とか、年上の部下とかが理解できなかった。そして多分どっかで見下していた。僕だけが仕事を支えているような錯覚を持っていた。でもね、結局それ錯覚だった。何十億って規模のビジネスで、その責任を負っているなんて勘違いしていたけど、小さい小さい。幾ら積まれたってかけがえのない存在を持っていたら、定時で帰りますよ、年下のガキみたいな上司にへつらいますよ。
すごい狭い範囲での価値観が、世界の価値観みたいになってしまう。そうするとね、きっと人はすごく強くなれる。でもそれはすごくリスキーで、そこで敗れてしまうと次が見つからない。高機能なダメな人ってたぶんそんなところあるんじゃないかな?
意識高い系と呼ばれてしまう人は、ちょっと心配。意識高い人を目指しちゃってるから。僕は思うの。意識高いって言われる人は、あれ、きっと超越した社会不適合者だよ?
結局何が言いたいかというと
無理しなくていいんじゃないですかね?
何かになろうとかって思わなくても。
そりゃ、僕は誰かに愛してもらいたいし、そのための努力はすると思います。
でもじゃぁ僕がなりたいのはその人に「愛される誰か」なのかというとそうではないと思うのです。あくまで自分は自分ですし、他の誰かになんてなれはしません。でもここでも矛盾があるのです。ここで言う「誰か」に自分も入っちゃうんですよね。だから「自分」が愛せる「自分」になるには、ありのままの自分ではいられないし、でもそれって大きく見ると、またそれも「ありのまま」の自分なんでしょうね。
ま、結局、ありのままの自分って今の自分なんじゃないですかね?
ふぅ~久々に暴走する思考を体験した。