幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

Nosralgia

昭和64年1月。

冬休みが明けたばかりの、短縮授業の時期だったと思う。

祖父が危篤に陥り、顔色を変えた母親が学校へ僕と妹を迎えに来た。

小学校5年生の僕と3年生の妹にとって、親族の”死”に立ち会うのは初めての経験だった。

普段はどこか抜けたところがあって明るい母親の真剣な表情が僕を不安にさせた。泣きたいくらいの気持ちを抑えるのに必死で、僕の顔からも表情は消えていたのではないだろうか。

3年生だった妹も母のただならぬ雰囲気に気圧されて、表面上は神妙に取り繕っていたが、母が親戚への連絡を入れるために公衆電話で話しているときに、「ねぇ、”キトク”ってなぁに?」と聞いてきたから、あの時はわかっていなかったのだろう。でも、そんな妹の存在が僕の気持ちを引き締めてくれた。

もしかすると、5年生の僕にしたって危篤」と言うものを知っていたのは珍しいことだったのかも知れない。ただ、僕はそれまで2年に一度は大病や怪我で1ヶ月超の入院を繰り返す、「行きつけの病院」のある小学生だったから、意味を知っていたが、3年生の妹にどう伝えていいものか迷った挙句、「おじいちゃんが病気ですごい大変な状態なんだ」とだけ伝えた。

大宮駅から出る特急「あさま」に乗って父方の実家のある長野へ向かう。夏休みなどには母の運転する車に乗って、向かう長野へ電車で向かうのはそれだけでも特別なことだった。地元の駅の改札を抜けるとき、普段手にする小さな切符ではなく、特急券とセットになった名刺大の切符を検札してもらい、鋏を入れてもらうのは何故か誇らしかった。

熊谷を過ぎたあたりで、隣で座っていた妹がうつらうつらとし始めて、僕の肩に頭を乗せて眠り始めた。妹にとっては初めて電車で行く長野。いつもと違う緊張感、限界だったのだろう。厚手の服を着ていた僕の肩にも妹の体温がどんどん上がり、子供の寝ているときの心配になるくらいな高さになるのが感られた。

高崎を過ぎたあたりだろうか。車窓の外にチラチラと白いものが見え、やがて全ての景色が雪に覆われて行った。外の寒そうな景色とは裏腹に換気性能の低い車内はそれほど多くの乗客がいるわけでもないのに、息苦しさを感じるほどに蒸していた。そとの景色を見ようと曇ったガラスを拭いても、しばらくするとまた曇ってしまう。まるで窓を掃除するかのように僕は繰り返し繰り返し、窓を拭って外を見ていた。そうしないと張り詰めた不安が僕をバラバラにしてしまいそうだったから。

 途中、長い停車をする駅で母が親戚に連絡を入れるために電車を降りていった。ただでさえ不安な状態だったが、そこで我侭を言えるほど僕も幼くはなかったし、相変わらず僕の肩によだれを垂らして寝ている妹がいたので、僕は窓からホームの公衆電話へ小走りに向かう母を目で追っていた。母の口元から出る白い息が、見たことはなかったが汽車の蒸気のように思えて、なぜか少しおかしかった。出発時刻が迫り、必要以上に焦る気持ち、母の姿を電車内で見たときは立ち上がりそうなほど嬉しかった。母は手にプラ容器に入ったお茶を2つ持ってきており、そのひとつを僕に渡して「やけどしなように飲みなさいね」と妹を起こさないようにささやいた。

その時もう母は気づいていたはずだった。実は、母が電話をかけに行っている間に母の荷物が置き引きされていたのだ。不安そうな僕ら兄妹を慮ってか、それとも元々母がそういう人なのかはわからなかったが、慌てることもなく車掌に相談していたらしい。僕がそのことを知ったのは全てが終わり、後日譚のように話せるようになってからだった。

 

 電車はやがて長野駅へ到着し、そこからローカル線に乗り換えて松代へ向かった。押しボタンで開閉するドアに僕の心は踊り、ボタンを押すために降りる駅に近づくとボタンの前に陣取り、停車するのを待ち構えていた。所詮、小学5年生だった。

駅を出て、しばらくすると懐かしい声が母の名前を呼んだ。叔母さんだった。いつも元気な叔母だったが、その日は少し元気がなく、いつもだったらまっさきに僕を抱きしめるのだけど、その日はただ「よく来たね、大変だったでしょう?」と言う問いかけだけだった。叔母の運転する軽自動車の中は母と叔母の甲高い声で満たされ、何かラジオで言っていたけれど、ところどころ「ご容態」だとかそんな言葉が聞き取れるだけで、内容までは把握できなかった。ただ、危篤の祖父のことと併せて考え、僕は「爺ちゃんすげぇラジオでなんか言われてる」と思っていた。

 

 父の実家に着くと、親戚一同が既に集まっており、広い2世帯住宅ではあったが、子供たちの居場所はなく、祖父母と同居している叔母の娘、つまり僕らの従兄弟の部屋に子供ばかり6人が押し込まれ、のんきにドンジャラなんかして時間をつぶしていた。父方の従兄弟の多くはそのとき既に成人しており、その人たちは大人たちに混じって神妙な顔で会話していた。男4人、女1人という父の兄弟たちは、叔母は元気のいい普通のオバさんだったが、他の男兄弟は父も含め、見た目がゴツく、兄弟4人が集まるとそれだけで緊張感漂った。後日になるが、祖父の法事の際には近所から「どこの組の会合か?」と言われたほどに柄が悪かった。乗ってる車も、リンカーンコンチネンタル、センチュリー、クラウン、シーマ(いずれもスモーク入り)だったのも悪かったと思う。親族である僕さえ疑った。

 病院ではなく自宅で療養していた祖父は、その日の夜に亡くなった。家族全員に見守られて逝った。入院経験で幾つもの死を見てきた僕は、死そのものには恐怖を感じていなかったが、あまり喋らなかったお爺ちゃんが、もう二度と喋らなくなるという事実に怯えた。しかし、同じように怯えていた子供たち、たくさんの大人たちがいてくれたおかげで僕はその恐怖に飲み込まれることはなかった。

通夜、火葬、葬儀などを済ましたころ。昭和が終わった。

祖母が言った「よかったねぇ、お爺ちゃん、天皇様の露払いだったんだねぇ」

平成と言う時代が始まった。

 

~End~

昭和と平成の違い、と言う記事を見て、思い出した。

携帯も液晶テレビも、日本中をくまなく走る新幹線もなかったころのお話。

27年前の話。

この27年の間に多くのことが変わった。

でもきっと、人は人を愛して、死んでゆくことは、これからも変わらない。