幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

救済

青汁がまっさきに思い浮かんでしまったのですが、それはまぁさておき。

いや、気持ち悪いので、とりあえず貼っておこう。

 

 

キューサイ青汁(粉末タイプ)420g
 

 本当に書きたいのはこの記事に関して

shibacow.hatenablog.com

フェミニズムとか弱者男性について書くつもりはなくて、往々にしてこのような形で論点の推移が図られてしまうことについて言及したいのです。

救われるものが特権化されていないか?

背景には恐らく自己責任論がある。「アリとキリギリス」のお話しではないが、若いころに散々遊んでたら年老いてからのたれ死ぬことは自己責任であると言うことだろう。確かにそう言える部分もある。努力して得た富を、努力もせずに遊び呆けて来た人が困ったからと言って無償で提供することに抵抗を感じるのも理解できる。だから、「救われるべき人」を選定しようと言うのはどうにも僕は受け入れられない。

困っている人を助けるのに条件が必要なのだろうか?

もちろん、助ける方法については吟味が必要だと思う。安易な救済は救済にならないから。でもね、困っている人がいてその人に「自分でもっと頑張れ」って言うのは違うように思う。気持ちは応援してていんだろうけど、困っているという自覚のあって救いを求めている人は何かしらの解決策を求めている訳で、それが知識の補充によって解決できるのであればそうすべきだし、その人の困り方をちゃんと把握すると言うのが大事なんだと思う。

この記事では『「弱者男性」とフェミニズム』と言う議論にすり替わっている。この傾向が最近多いような気がする。

問題点は「救いを必要としている人がいる」と言うことではないのだろうか?