幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

都合よくラプラスの悪魔を受け入れる

ラプラスの悪魔って知ってます?

簡単に言ってしまうと、運命論・決定論なんですけど、もうちょっと詳しく言うと

「全ての原子の位置と運動量がわかれば、未来を完全に予想できる」と言う仮定で、あってるのかな?

ハイゼンベルグの不確実性理論で否定されている仮定なんですけどね。

昔さ、原子って概念を知って、この世界のあらゆるものが原子の組み合わせによってできてるってわかったときに、僕もうっすらこんなことを考えた。でも、そうなると人間の自由意志ってのはなくなると言うことになり、いろいろとめんどくさいなぁって思った記憶がある。

人間の脳もある意味では化学的電気的回路から成る生体組織コンピュータと言えるわけだから、僕らの思考というのも実は何かしらの外的刺激によってコントロールすることもできるし、僕らのなんとなくな気持ちは薬によってある程度コントロールできちゃったりしてる。

人間に魂と言うものがあるのかどうか、また、それが人間の物理的な機関に宿るものなのかどうかも分からないけど、もし、魂が存在していて、それが物理的な機関に宿っているものであれば、その魂さえも外的な刺激によってコントロールすることは可能なはずだ。

人間ってさ、決定論好きじゃない?運命だとか宿命だとか?僕は嫌いなんだけど、でもね、たまに都合よく使うことがある。

人はなぜ努力しなきゃいけないのか?

要するに、決定論的に世界を見るのであれば、僕らは努力する必要がなくなるんだ。どんな努力をしてみても、結果が決まっているんだったら無駄じゃない?ま、努力することも含めて決まっているんだったら、努力するかしないかで悩む必要もないんだけどね。とにかく、人は不確実な未来を嫌い、人は確実な未来を知りたがる。そして生まれたのが神様やらアカシックレコードやらって概念なんだと思う。未来が決定しているんだったら努力します?僕はしないなぁ。

 つまり、「未来は変えられる」って思うから人は努力するんだよね。それを望んでいるときには「未来を変えられる」って言うのは何よりもの励みになる。

でも「努力しなきゃいけない」ものなのかな?それは違うような気がするの。僕らに自由意志があるからこそ、努力が自発的に発生するものなのに、「しなきゃ」という義務的あるいは強制された努力を「努力」と呼んでいいのだろうか?

努力を強制するもの

努力を強制するものは、さきの「自由意志が存在する」と言う前提に基づいた「未来を変えられる」と言う信念を持った他人だ。僕ら、よく「がんばれ」って言ってしまうけど、がんばっている人には失礼な言葉だよね。でも、それが迷惑に感じるときにはもうその努力は辞めた方がいいのかも知れない。だってたぶん、もう辞めたいって思っているから。

努力を強制するのは他人がほとんどなんだけど、実は自分自身でも自分に対して努力を強制してしまっているときがある。その状態ってすごいストレスだと思うけど、どうかな?

ラプラスの悪魔を都合よく使う

要するにラプラスの悪魔ってのは、ある時点での状態が未来や過去との因果関係の連綿としたつらなりのひとつの状態であるってことだ。だから、僕らが変えられない過去については、僕はラプラスの悪魔の理屈を使う。不可逆な時間に逆らうことはできない。そう考えると、過去は反省する材料を持つけど、僕の今を変える力はない。このあたりはもしかしたらアドラーの考え方に近いのかもしれないね。要するに過去に縛られないためには、過去が変わらないということをしっかりと自覚する必要がある。僕らが変えられるのは未来だけだ。

 

でもさ、未来を変えたくなければ努力しなくてもいいんじゃない?

だけど、自分ひとりじゃないから、自分の環境ってのは変わっちゃう。変化する環境に合わせて自分の行動を決めてゆくってのが大事なのかな?