昔々、ある学校の入試問題で
「データと情報の違いについて論じろ」
と言うものがあったとかなかったとか?
単純に何が違うのか?調べてみると、いろんな説明があるけど、共通しているのは、意味性の有無なのかと思う。
要するにデータには意味がない状態、情報はデータに意味が付与されたものと言えるのかもしれない。
ま、厳密な定義はさておき、情報が意味を持つものなら何かしらの、誰かしらの意図が含まれているということになる。そして、さらにそこにキュレーションなるものが加わると、その傾向はさらに強くなる。
テレビ化するネット
前にも書いたのだが、インターネット黎明期に比べるとネットの情報は洗練されたと同時に退屈になってきた。その背景には広告収入と言うインセンティブをネットでの情報発信者が持ってしまったことがあると思う。そして、さらにキュレーションサイトなるものが、それに拍車をかけてしまっているように思う。
いわゆるニュースアプリと言うものも言ってしまえばキュレーションサイトであって、対象がニュースとして報じられたものである他は基本的に”まとめ”サイトと同じことなのだろう。確かに便利なものだ。いろいろなサイトに散らばった情報をいちいち集めてこなくても済むのだから、時間の節約にはなるし、真実らしさを必要最低限感じられる。しかし、ここに恐ろしさも感じてしまう。
ステマと呼ばれる、ステルスマーケティングはさもそれが一般消費者の意見かのように意図を持ってネット上に拡散されるマーケティングの手法だが、もはや意図せずともアフィリエイトの企業に登録さえすれば優秀なアフィリエイターさんたちがステルスマーケティングをしてくれる。キュレーションサイトのビジネスモデルがどのようなものかにも依るが、大凡無料のキュレーションサイトは広告収入がその主たるものだと考えると、震災後に起こった「東京電力テレビCM問題」に見えた企業とマスコミの癒着が、キュレーションサイトと企業の間にも起こり得るのではないかと思う。
多くの意見や考え、情報を誰もが検閲なしに公開できるネットの自由は維持されるものの、キュレーションサイトの存在が検索アルゴリズムに対して大きな影響を及ぼすのではないだろうか。
データと情報。
その違いが意味性の有無にあるのならば、確かに情報は溢れている。ただし、それは何かしらの意図された意味づけをされているものであることを意識しておかなければならないと思う。
ふぅ~久々に真面目なこと書いたら疲れたw