幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

イデア ~どこにもない「普通」と「常識」のお話し~

イデア論っぽいもの

こんなおっさんにも若いときはあって、若い時のおっさんは「哲学」が好きだった。

 

過去形で書いたけど、たぶん今でも好きなんだと思う。

 

プラトンも好きで、そのイデア論は非常に興味深く思った。

 

僕の解釈しているイデア論ってのは、

 

イデア界ってのがありましてな、そこには完璧なひな形があるんですよ!

 

で、今の世の中ってのは、そのひな形の『不完全』なコピーなんです!」

 

って論だと思っている。

 

プラトンがこの考えに至ったプロセスを想像してみたんだ。

 

きっとこんなんだろう。

 

「なんか一人ひとり、いろんな部分で違うけど、目の数とか鼻の数とか一緒だよなぁ?しかも、なんか美しいとかって思うものも似てる・・・あ!そうか、うちらって元々あった一つの型から作られたコピーで美しいものは、よりその原型に近いものなんじゃね!?」

 

すごくバカっぽいプラトンになってしまいましたが、あくまで僕の想像ですから。

 

で、学部生の時に感動して結構プラトンを読んだのです。

 

シンプルでいいですよね。でも、言葉が難しい。同じころに一般教養の授業でソシュール言語学を勉強した。その影響からか、僕はこんなことを考えたのだった。

 

「哲学の言葉が難しいのってさ、学問として厳密さを求め過ぎちゃって、誤解されないように普遍的な言葉を探して結局現実離れしたことしか語れなくなっちゃったんじゃないの?」と。

 

少し難しく書くと、「世界を言葉によって抽象化することで、哲学者の語る世界はどこにも存在しない世界になってしまった」と言う感じだったはず。

「完璧で普遍的な真理など存在しない。存在したしても、それを言葉で表現することはできない。イデアは触れれば形を変えてしまうものだから」なんて考えていた。 

 

ま、劣等生の遠吠えだったのかも知れない。

 

でも、さっき書いた記事でふとこのことが思い出されたんです。

 

monknight.hatenablog.com

 これね。

この記事で、僕は「期待」が「裏切られて」怒りが発すると考えた。

 

最近ネット上での「炎上」がニュースになったりするけど、なんかどっちもどっちって感じのケースもある。

そこで思ったのです。

今ネットの世界だけじゃなくて、いろんなところできっと自分勝手に決められた「普通」とか「常識」が衝突しちゃってるんじゃないかなって。

 

 どこにもない普通と常識、どこにもいない我々

「一般的に」とか「普通は」とか「常識的に」とか、まぁ表現はいろいろなんだけど、どうも定義のあいまいな状態で使っていると思う。むしろ、こうかな?都合よく範囲を決めて使っているって感じ。

 

特にネットのニュースなんかを見ていて思うの。グノシーとか僕も便利だと思って使っているけど、ある意味怖いところがある。要はあれって自分の好みのニュースを多く表示してくれるんでしょ?で、当然のことのように「ねぇねぇあのニュース知ってる?」みたいに話してみると、意外と誰も知らないなんてこと経験する。

 

ネットに限ったことじゃないんだけど、人ってさ自分に都合のよい情報を集めちゃうじゃない。テレビとかラジオもそうなんだけど、ネットはその傾向がよりタイトに現れると思う。ニュースを検索することができるし、あとやっぱりコミュニティを作りやすい。だから、自分と同じような傾向にある人たちの中で情報交換をしているとその中の情報が「常識」や「普通」、「一般的」になってしまう。

 

でも、それって本当は「制限つきの普通」「条件つきの常識」「局所的な一般」なんじゃないだろうか?

報道ステーションの古館さんの年収が高くて「どの口が『我々庶民』なんていうんだ!」みたいな意見を見たけど、古館さんの言う「我々庶民」には年収200万~年収20億まで入るのだろう。

 

そうなると「我々」とか「あなた方」とかもどこまでが我々で、どっからがあなた方なんだろうってのも問題かな。学校とかの体育祭とかでさ選手宣誓とかでなんか事前に相談もされちゃいないのに、勝手に代表に「我々」とかって言われて宣誓されちゃうのと同じなのかもしれない。投票率50%以下で「国民の信任を得た」なんて言えちゃう政治家も冷静に考えると、実際は有権者の良くて30%程度の信任を得ているだけなのに、「国民」と表現しちゃうって言うね。

 

Looking for 落としどころ

このエントリの落としどころも探しているのだけど、実際対立したり、意見が違ったりしたときに大事なのは「落としどころ」だよね。でも、これって互いに意見の違いや対立しているってことを認め合って初めて実現できることなんだよね。

 

でも残念なことに、この世知辛い世の中じゃ多くの場合「不寛容」な態度がとられてしまう。

 

ここで少し提言じゃないけどオピニオン。

 

まず人の話を聞いてみよう。

断定するんじゃなくて、確認しよう。

自分の意見をしっかり伝えよう。

そんでもって相手の意見を尊重しよう。

で、落としどころが必要ならそこからだよね。

頭っから否定してたら対話は成り立たない。

何も否定する必要ないんじゃない?

「ふぅ~ん、そうなんだ」程度でいいんじゃないかな?

 

とはいえ、まぁ利害の対立があるとそうもいかないのか。

 

なんてことを注目のエントリでの喧嘩みたいのを見て思った。

 

ただそれだけ。