幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

差別と区別と

何度か触れたテーマかもしれないのだけれど、なんか障害者に対する辛辣な意見を放送したNHKの番組が話題とか?と言うことで便乗して発言するのだけれど、まぁ聞いて見てよ。

 

まず、初めにして、結論でもあるのだけれど、結局のところ差別問題と言うのは、偏った平等思想によって発生していると思うのだ。人が平等であったためしなんて、諭吉さんの時代はもちろんのこと、それまでも、これからもあり得ない。

 

端的に言うと、障害者に対しての辛辣な意見を僕は不愉快に感じる。理由なんて無い。とにかく不愉快なんだ。もし、健常者に対しての障害者側から出る辛辣な意見と言うものがあったら、それに対しても僕は不愉快に思うのだろう。とにかく辛辣な意見が不愉快なのだ。つまりはヘイトが不愉快なのだ。

 

もちろん僕は聖人では無いし、そこら中にヘイトを振りまいているかもしれないし、とても他人を批判できる人間ではないのだけど、そんな僕を基準に考えると、ヘイトを生むのは、裏切られた期待なのだと思う。

 

下賤な例で申し訳ないが、好きな誰かがいるとする。その好きな人が、自分以外の異性と仲良くしているのを見て感じる嫉妬、それがヘイトの卵なんだと思う。

障害者に辛辣な意見を言う人はさ、きっとね、障害者によって本来自分が得られるはずだった何かを、失うなり、手に入らなかったと思い込んでしまっている人なのだと思う。よくよく考えりゃそれは障害者のせいでも何でもないはずなんだけどね。

 

電車の中で迷惑かけられたとか、そんなのは障害者だから迷惑かけたのでは無くてさ、健常者なのに平気で他人に迷惑かける人に比べて、障害者って言う特徴が強く残ってしまっているだけで、数として多くは無いはずだ。

 

迷惑かけている障害者を見かけたら、容赦なくシバケば良い。健常者と同じように。

 

問題はここだと思うの。実際、しばけないよね。障害者だから仕方がないとか、そんな理由や哀れみできっと叱ることすら躊躇しちゃう。

 

多分、これが逆差別とかって言うもんなんじゃ無い?で、そんなことに目を瞑って障害者を過剰に擁護する健常者がいるから、法律があるから、いろいろ揉めるんだと思うの。

 

ハンディキャップを持って生まれてしまった不幸には同情はしても哀れんではいけないのだと思う。

 

哀れんだ瞬間に、僕らは平等の平野から、無尽に広がる高低の軸を得てしまう。

 

僕は言いたいのだ。

いろんな事を誰かのせいにするな、時には自分の外に原因を求めなくてはならない程に自分に絶望することはある。だから少しはしょうがないけど、それが癖になる前に気づかなくてはいけない。

 

この世界があなたのものであることを。そしてあなたは、あなたではなく、世界そのものである事を。